説教題「神の栄光を求めて」
聖書 エゼキエル書11章14~25節
イエス様の時代は神の国の到来を待ち望んでいましたが、それは言い換えると神の栄光の時を待望していたということが言えます。
神の栄光はとは神様のご臨在と関係する言葉です。すなわち神様が住まわれるにふさわしい場所に神の栄光が満ちるのです。逆に言いますと、主の臨在をわたしたちの不従順によって失うならば、神の栄光はそこから去ってしまうのです。
- 旧約における神の栄光
旧約において主の栄光はシナイ山に現れ、神の命令で造られた幕屋の上に満ちました。カナンに定住し王政となってソロモンがエルサレムに神殿を建立して後は、神は神殿を住まいとされ神の栄光がそこに留まり世界を照らしました。そのことはユダヤ人にとって誇りであり希望でした。しかし時代を経るに至り、神の栄光はユダヤ人の不従順によって神殿から去ることになります。
- エゼキエルの預言
バビロン捕囚においてエゼキエルは捕囚の地で幻を見ます。それは都から神の栄光が離れ去るという痛ましい幻でした。イスラエルの背神は捕囚という出来事だけでなく神の栄光を失うという霊的損失をも意味したのです。このことはイスラエルにとってチャレンジとなりました。バビロン捕囚は終わりを告げ、神殿は再建されましたが、人々はなお神の栄光は去ったという思いにとらわれ続けることになりました。
- キリストによってもたらされた神の栄光
そのように人々が神の臨在の回復による神の栄光を求める中、時至ってイエス・キリストはこの世界に誕生されました。
ヨハネによる福音書を見ると、「ことば(キリスト)は人となって私たちの間に住まわれた」とありますが、これは神が神殿に住まわれたということを表します。キリストの受肉によって神の臨在が回復され、神の栄光が帰って来たのです。そして私たち一人ひとりが神が住まう神殿として神に仕える特権に預かる者とされているのです。
実に神は驚くべき福音のみわざをもって神の栄光を現してくださいました。「信じるならば神の栄光を見るであろう」とのキリストのお言葉に信頼して主を仰ぎ見て歩みましょう。
