説教題「契約の民の責任~申命記」
聖書 申命記11章26~32節
申命記の言葉の由来は、「繰り返し命じる」ということから来ています。この時、イスラエルの民は40年間の荒野での旅をへて古い世代から新しい世代に代替わりしており、荒野の放浪も終焉を迎えようとしていました。そのような中で年老いて死期の近づいたモーセが人々を集め、最後の力を振り絞るようにして語り伝えたのが申命記の言葉でした。
- 契約を忘れてはならない
ここでモーセは大切なこととして彼らが契約の民であることを述べます。あのアブラハムから神がイスラエルを通してこの世界を祝福するために契約を結ばれたことが連綿として生きています。イスラエルは祭司の国、聖なる国民、そして契約の民としての使命を担っているのです。そのことを彼らは厳粛に受け止めなければなりませんでした。
- 祝福とのろい
神はモーセを通して彼らの前に祝福とのろいを置くことを示されました。イスラエルが神に従うならば祝福され、神に背くならばのろわれる、即ち祝福を失うのです。カナンでのイスラエルの将来は祝福とのろいという枠組みの中で進んでいくことになりました。果たしてイスラエルはどちらの道を進むのか。旧約聖書は捕囚にいたるまでのイスラエルの歩みを正直に伝え評価しています。
- イスラエルののろいを解くお方
「木にかけられた者はのろわれた者」というお言葉が申命記の中にありますが、モーセの時代から千数百年の後に、まさにのろわれた者として十字架に死んでほうむられた方がおられました。しかしそのお方は自分の罪、咎の故ではなく、イスラエルののろいを背負って死んでくださったお方、まことの救い主、メシア、イエス・キリスト様でした。キリストの十字架はイスラエルをのろいから解放し、不通状態であった神様の祝福を世界に及ぼす贖いのみわざでした。わたしたちはこのキリストのゆえにこの世界に神の御国が到来する希望に預かっているのです。