教題「慰めの預言」
聖書 イザヤ書40章1~11節
エゼキエルは神が神殿を去る幻を見ましたが、実際にバビロン捕囚という出来事が起こりました。神の住まう神殿そのものが破壊されました。捕囚されたイスラエルの民は失意のうちに嘆きます。「バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた」とはその時の歌です。
- イザヤの慰めの預言
しかしそのような中、預言者イザヤによってバビロンからの解放が預言されました。神は「慰めよ、慰めよ、私の民を」と失望と悲しみの中にある捕囚の民を慰めることを命じます。そしてその慰めとして伝えるべき内容は「その苦役は終わり、その咎は償われている。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている」というものでした。もう刑罰の時期は過ぎた。罪は償われたというのです。
- 荒野の預言
さらに神はエルサレムに来られるために「主の道を用意せよ」と命じます。神が宣言されたゆるしのみわざのために道をフラットにしなさいというのです。そうするならば神は力をもって来られ、その御腕ですべ治められるのです。また神は羊飼いのようにもしてその群れ(イスラエル)を飼い、懐に抱き、優しく導いてくださるともあります。この素晴らしい預言は歴史的に実現していきます。捕囚は終わり、エルサレムの神殿は再建されるのです。しかしイザヤの預言が真に成就するにはイエス様のご登場を待たなければなりませんでした。
- 真の慰め主
福音書にはイエス様の公活動の前にイザヤ書40章の預言とバプテスマのヨハネの活動が記されています。それは単なる前振りではなく、キリストのみわざがイザヤの預言に基づいた神のご計画によるものであることを意味します。主は力あるメシアとして神の約束を実現すべくこの世に来られたのです。そしてそれはご自身の十字架と復活のみわざをもって成し遂げられ、この世界に真の救いと慰めがもたらされました。キリストこそは真の慰め主でした。
このキリストによる慰めの福音を知ることができたわたしたちがすべきことは何でしょう。それはイザヤ書にあるように高い山に登り、このよい知らせを伝えることなのです。