礼拝説教 「幼な子のごとく」 2023年8月20日
聖書 詩篇131篇1~3節
(序)幼子が母親に信頼するように、主に信頼していることを歌っている極めて特色ある詩篇です。
- 謙遜(1節)
1節、詩人は、主のみ前に遜り、「私の心は誇らず、私の目は高ぶりません」と言っています。人間は、そのおごりと高ぶりのゆえに、人を軽蔑し、圧迫し、傷つけ、戦いを起し、人を亡き者としています。また、神に対して不従順で不信仰、不遜な態度をもって罪を犯して来ました。
私たちは、誇るべきは、主を誇るべきです(第1コリント1章31節)。また、私たちは誇るとすれば、自らの弱さを誇るべきです(第2コリント12章9節)。
1節後半に「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は足を踏み入れません」とありますが、聖書の中に、主が明らかにしておられる以上のことを、私たちは詮索し、足を踏み入れ、深入りすべきではありません。もちろん、それはあらゆる科学的探究をやめるべきと言っているのではありません。霊的たましいの問題に関する事柄について言っているのです。霊的たましいの問題に関して、なぜと詮索し、足を踏み入れ、深入りすべきではないと言っているのです。私たちのは、すべてが理解できなくても、主を信頼することが大切です。
- 信頼(2節)
2節、「まことに私は、私のたましいを和らげ、静めました。」詩人は、心が激しく動揺するような出来事に遭遇したのでしょう。しかし、今や、主に信頼して、たましいは和らげられ、平静さを取り戻しています。
2節後半に「乳離れした子が、母親と共にいるように、乳離れした子のように、私のたましいは私とともにあります」とあります。安心し切って、母親の前にいるように、詩人は、信頼と平安に満ちているということを言っているのですが、少し分かりにくいのは、「私のたましいは私とともにあります」という一句です。新改訳第3版では「私の前におります」と訳していました。直訳では「私の上に、私のたましいは」となります。ペロ-ネという人は、このところを、”lies My Soul upon me.” 「私のたましいは、私の上に横たわる」と訳しています。そして「この比喩は、失望ということによって純化され、へりくだった魂の恵みに溢れ、心に触れる、独自で、美しい表現である」と言っています。
ここには、子どもが安息を得るために払う苦痛や戦いと同時に、純粋で利己的でない安息を獲得したということが表現されています。乳離れした子どもは、最初苛立つが、やがてこれまでのように安易に泣いたりわめいたりしない。むしろ静かに満ちたりて寄りかかっています。なぜなら、乳離れした子どもは、母親のそばにいるからです。そのように、私たちのたましいは、地上のものを欲しがり、不満や苛立ちから離れ、静かに神を待ち望み、主の臨在に満足し、主の御腕にやすらうのです。
乳離れした子が、母親の腕の中に抱っこされて、全く安心し切っているように、ただ主の臨在がそこにあり、主との親しい交わりに全く身を任せている安息の状態です。実に、私のたましいは、主に全く信頼し、私の上に安らぎ、安息しているのです。
マルコの福音書10章13~16節をご覧ください。主イエスは、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。…神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と言っておられます。すなわち、子どものように、素直に信じ、拠り頼み、安息するとことが大切であることを教えられたのです。
三、待ち望み(3節)
そして3節で、詩人は、イスラエルの民に向って「イスラエルよ。…主を待ち望め」と呼びかけています。詩篇130篇でも、「イスラエルよ、主を待て」とありましたが、詩篇131篇でも同じように、「イスラエルよ。…主を待ち望め」と呼びかけています。しかも、「今よりとこしえまで」を加えて強調し、「イスラエルよ。今よりとこしえまで、主を待ち望め」と命じています。詩篇130篇でも申し上げましたが、静かに主を待ち望むことは大切です。何か神様のみこころを求めるときもそうですが、特に礼拝において私たちが恵まれる秘訣は、待ち望むことです。
(結論)私たちも、静かに主の御前に静まりましょう。静まって主を待ち望みましょう。幼子のような謙遜と信頼とをもって、主を待ち望む礼拝者として頂きましょう。