礼拝説教「涙とともに種まく者は」2023年7月23日
聖書 詩篇126篇1~6節
(序)この詩篇もまた、多くの人々に愛された詩篇です。1節をどのように解釈するかについて、様々な説がありますが、単純に、過去の出来事と理解するのが良いのではないかと思います。
一、帰還の喜び 1~3節
1節、「主がシオンを復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった」とあります。紀元前539年、クロス(メド・ペルシャのキュロス2世)がバビロンを滅ぼし、翌紀元前538年にクロスによりユダの民の解放とエルサレムへの帰還の布告がなされます。実に、歴史の背後に、主が働いて「シオンの繁栄を元どおりにされた」のです。その時の喜びは、「夢を見ている者のようであった」というのです。
2節、「口は笑いで満たされ、…舌は喜びの叫びで満たされた」と喜びと感謝に溢れているユダの民の姿が歌われています。主の救いの御業のゆえに、喜びと感謝に満たされたのです。
主の回復の御業を見て、他国の人々も「主は彼らのために大いなることをなさった」と主をほめたたえたのです。
3節、「主が私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ」とあります。主は、私たちのためにも、大いなることをなして下さいます。回復とリバイバルの御業を行ってくださいます。私たちは、信仰をもって期待し、大いに喜び、感謝する者となりましょう。
二、回復の願い 4節
4節、バビロンからの帰還はしたものの、エルサレム神殿は完成されないまま中断されていました。また、城壁は崩れたままというエズラやネヘミヤの時代という背景がありました。ですから、詩人は、「私たちを元どおりにしてください」と切に祈っているのです。ネゲブとは、ユダの南に広がる乾燥地帯で、雨季になると川が増水し、一気に流れ下ります。そのようにエルサレムの繁栄を一気に驚くほどに回復してくださいと祈っているのです。
三、回復の確信 5~6節
5~6節において、詩人は、現在の悲哀と労苦は、必ず報われて喜びをもたらすようになるとの信仰を表明しています。
イザヤ書35章1~10節をご覧ください。ここにも、大いなる回復と賛美に満ち溢れた喜びが歌われています。荒野に、雨が降り注ぎ、川が流れ、草木が芽吹き、花咲き、花と緑で野原一面が覆い尽くされている光景が広がっています。地は、楽しみと喜び、大いなる祝福の歌にあふれています。主の栄光、麗しさで満ちているというのです。かつてサフランの球根をいただき、鉢に植えて花の咲くのを楽しみにしていました。「いつ芽を出すのかな」と水やりをしていますと、ある朝突然に花がパッと咲いているので驚いたことがあります。葉っぱが出る前に、いきなり花が咲いたので驚きました。そのように神様は突然に、思っても見ない時に驚くべき御業を行ってくださるのです。イザヤ書35章の 3~4節には、「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ」とリバイバルを求めて祈り続けるようにとの神の民への励ましがあります。「強くあれ、恐れるな。…神は来て、あなたがたを救われる」と言われます。神が臨まれる時、大いなる変貌が神の民の上に現されます。目と耳は開かれ、足は強められて鹿のように飛び跳ね、口には賛美が溢れるというのです。それは、「水が湧き出し、…川が流れるからだ」(6)というのです。B.F..バックストン先生は、「この湧き出しとは、破れだすという意味で……荒地に川が流れるとは神の聖霊の流れであります」と言っておられます。すべては、ご聖霊のみ業なのです。まさに、万事聖霊、万事祈祷です。8~10節に、神との交わりの回復が語られています。 回復されて祝福と喜びに満ちた地に、一筋の聖なる大路が開かれます。その道は、贖われた者のみが通ることが出来ます。そして、高らかに賛美を歌いつつ、シオンへ、神の都へと帰って行くのです。もはや悲しみと嘆きとは逃げ去り、楽しみと喜びがついて来るというのです。
先週まで、祈祷会で「伝道者の書」を学んでいますが、伝道者の書11章6節をお開き下さい。「朝にあなたの種を蒔け、夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれか、どちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくゆくのかを知らないのだから」とあります。休むことなく、みことばの種を蒔く者となりましょう。
最後にもう一度、詩篇126篇の5~6節をご覧ください。「涙とともに種まく者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る」というのです。どんなに困難の中にあっても、主は必ず回復を与え、繁栄を元にして下さると信仰の確信に立ちましょう。
(結論)どんなに困難の中にあっても、主は必ず回復を与え、繁栄を元にして下さると信仰の確信に立ち進んでまいりましょう。朝にみことばの種を蒔き、夕べに豊かな刈り取りをする者となりましょう。