礼拝説教「山に向かって目を上げる」2023年6月18日
聖書 詩篇121篇1~8節
(序)続いて、「都上りの歌」である詩篇121篇を見たいと思います。ここには、いつも、どこにあっても守って下さる主の恵みが歌われています。
- 天地を造られた主の助け(1~2節)
詩人は、長い巡礼の旅を終えて、ついにエルサレムを囲む山々を見上げ、主の守りを感謝して歌ったという説と、巡礼の旅にこれから出かけようとするときの歌と解釈する二通りの解釈があります。いずれの場合もあると思われますので、いずれか一方に決めなくともよいのではと思います。詩人は、山々を見上げ、「私の助けは、どこから来るのだろうか」と自問自答します。そして、「天地を造られた主から来る」と信仰に立った答えをしています。2節の「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」とは、動くことない信仰の確信がここにあります。
私たちもこの信仰の確信につねに立たせていただきましょう。
- 恵みの支えと眠ることのない守り(3~6節)
主は、主に信頼する者の足をよろけさせることがありません。恵みによってささえてくださいます。詩篇94篇18節をご覧ください。「『私の足はよろけています』と私が言ったなら、主よ、あなたの恵みで、私を支えてください」とあります。主は、私たちがよろける時、あるいはつまずく時、恵みの御手を持って支えてくださいます。
イザヤ書41章10節
また、詩人は、片時も眠らないで守ってくださる主の恵みを歌っています。主は、まどろむことも、眠ることもしないで、寝ずの番をして守ってくださるのです。出エジプト記12章42節をご覧ください。
- 昼も夜も、行くにも帰るにも守って下さる主(5~6節)
主は常に近くにいて、昼も夜も、守ってくださっていることが歌われています。
「右の手をおおう陰」とは、主が全身を守ってくださることを意味しています。「日が…打つことがなく、月が…打つことはない」とは、直射日光が熱射病の原因と考えられました。また、月も熱病などの原因と考えられたところから来ています。
7~8節には、行くにも帰るにも守られる主の恵みが歌われています。
すべての災いから、いのちが守られ、行くにも帰るにも、常に守られるというのです。「都上りの歌」であると申し上げましたが、これからエルサレムへの長い旅路を思い、主の守りを祈り、山々を見上げ、これを造られた主に目を留め、祈っているのです。
出エジプト記13章21~22節、14章19節。イザヤ書52章12節をご覧ください。主は、私たちの先頭を行き、また後ろに回って、しんがりとなって下さいます。主は、行くにも帰るにも、私たちのすべての旅路において、守り導いてくださるのです。
(結論)私の助けは、「天地を造られた主から来る」との信仰にいつも立ちましょう。私たちがつまずいたり、よろけたりする時にも、主は、まどろむことも、眠ることもしないで、寝ずの番をして守ってくださるということを覚えましょう。また、私たちが、行くにも帰るにも、長い、困難な旅路においても、主は、先頭を行き、また、しんがりとなって守り導いてくださる主を信頼して歩んでまいりましょう。