聖書 使徒の働き 2章1~4節
一、感謝と喜びの日であるペンテコステ
ペンテコステは、旧約では「七週の祭」と言われました(出エジプト34:22、申命記16:9~12、レビ記23:15~21民数記28:26~31)。それは、穀物の収穫を祝う祭でした。新しい粉で作ったパンが和解の供え物と共に、揺り動かされてささげられました。それは感謝と喜びの日でありました。この日、イスラエルの民は、力に応じて自発のささげものをささげました。それは、また、神の憐れみと隣人への愛を表す祭でした。長い間、祝われてきた祭りの意味とペンテコステの新しい出来事の意味とが深くつながっています。まさに、ペンテコステは、収穫の日であり、喜びの日なのです。聖霊に満たされ、人々に主の救いを証しする日です。
二、聖霊に満たされた結果
聖霊に皆の者が満たされた、その著しいしるし、その結果は何であったかと言うと、それは、「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(4)ということです。9節からのところを数えただけでも15カ国以上のところから、エルサレムに集まって来ていました。弟子たちは、聖霊に満たされて、それぞれの国の言葉で話し出したのです。人々は大変驚きました。そして、ペテロが、11人の人々と共に立って、主イエスの十字架と復活を証ししたところ、その日、3000人ほどの人々が、信じてバプテスマを受けました。そして、教会が誕生したのです。
この聖霊降臨によって、弟子たちは、主イエスを力強く証しする者となり、福音宣教が進められ、信じる人々が起されました。すなわち、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」(1:8)と、主イエスが約束されたように、今も聖霊は、信じる私たちの内に働いて、主を証しする者としてくださるのです。
三、御霊のままに
4節をご覧ください。「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに」とあります。この所を、文語訳は、「御霊の宣べしむるままに」と訳してあります。弟子たちは、御霊のままに語り出し、大いなる神の御業が成されたのです。使徒の働きを見ると、「御霊が」とご聖霊が主語として記されているところが多くあります(2:4、8:29、10:19、11:12、16:7、)。御霊が語り、御霊が語らせ、御霊が導き、御霊が禁じ、御霊が示し、御霊が迫られるのです。御霊に満たされ、御霊に導かれて歩むことこそ、クリスチャン生活、クリスチャンの生涯の一切の秘訣です。「万事祈祷、万事聖霊」everything by prayer, everything by the Holy Spirit としばしば小島伊助先生からお聞きしました。「万事祈祷、万事聖霊」とは、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩むことであり、クリスチャン生涯の一切の秘訣です。
最後に、使徒の働き8章26~39節をご覧らんください。ここ8章には、信徒伝道者ピリポの働きを見ることが出来ます。彼の働きを通して、サマリアに大いなるリバイバルが起きました。しかし、ピリポは、荒れ果てたガザの地に行くように命じられました。そこにエルサレムで礼拝した後、国に帰る途中のエチオピアの高官である宦官がいました。御霊が、ピリポに、「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われ、言われるままに、ピリポが、馬車に近づくとその大臣は、イザヤ書を読んでいました。「読んでいることがわかりますか」と尋ねると、馬車に一緒に乗って導いてくれるようにと願いました。そこから、この宦官は主イエスを信じ、バプテスマを受け、やがてエチオピアは、キリスト教国となり、今日もキリスト教会が存在しています。ピリポが、御霊の導きに従い、御霊のままに遣わされ、主の恵みを証しした結果です。
(結論)私たちも、聖霊に満たされ、御霊のままに生き、遣わされ、主を証しする者となりましょう。