礼拝説教「主の豊かな恵みとあわれみ」2022年11月20日
詩篇106篇24~48節
(序)本日は、先週に続き、詩篇106篇24節以降をお話し致します。
- 再び不義の中におぼれたイスラエル
23節において、モーセが破れ口に立って、神に向かって、命がけで、イスラエルの罪を赦してくださるようにと執り成しの祈りを行いました。それゆえに、滅びを免れたイスラエルでしたが、24節を見ると、イスラエルは、再び不信仰を抱き、罪を犯しています。神様が与えてくださった「尊い地(約束の地)」をさげすみ、神のみことばを信じなかったというのです。25節には、彼らが、「自分たちの天幕の中で不平を言い、主のみ声を聞かなかった」というのです。彼らは、目の前の日常という狭い空間しか見えていません。目の前の日々のことのみが大きく思えたのです。彼らは、神の御声を聞くことも、神の大きなみこころを知ろうともしませんでした。「主のみ声を聞かなかった」ということは、彼らにとっての致命的なことでした。それゆえに、主なる神は、イスラエルの民を国々の間に投げ出し、地にあまねく撒き散らそうと決められたというのです。
28節は、イスラエルが、神の忌み嫌われる偶像礼拝を行い、神の御怒りをまねき、主からの刑罰を受けるに至ったことが記されています。
民数記25章3節,4節,7節,11節をご覧ください。その時立ち上がったのがアロンの孫ピネハスです。彼の仲立のゆえに「神の刑罰は終わった」というのです。
32~33節は、民が、再びメリバの水のほとりでつぶやいたことが記されています。そのことで、モーセは、主の命じられたようにしないで、主の聖なることを現さなかったので、災いをこうむりました。
すなわち、「岩に命じよ」と言われたのに、モーセが岩を打ったからでした。それゆえ、モーセは、目の前に約束の地を見ながらもそこに入ることは許されませんでした。
34~39節は、イスラエルが、偶像礼拝に深くかかわり、自らを汚し、霊的な姦淫を犯したことが歌われています。
40~43節、それゆえ、主の怒りが燃え上がり、彼らは、他の国々の手に渡され、支配されたのでした。主は、幾たびとなく、彼らを救い出されたけれども、彼らは、「相図って主に逆らい、自分たちの不義の中におぼれた」というのです。
二、主の豊かな恵みとあわれみ
しかし、主は、恵み豊かで、あわれみ深い方です。44節を見ると、「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留めたれた」というのです。何と忍耐深く、恵み豊かで、あわれみ深い方でしょう。
45節、主は、ご自分が立てられた契約を覚え、彼らをあわれまれたのでした。そして、46節、彼らを捕らえ移した民のあわれみを受けるようにしてくださったというのです。
主は何と豊かな恵みとあわれみのお方でしょう。私たちの信じる神様は、このような豊かな恵みとあわれみに満ちたお方です。
三、あわれみ深い主に向かっての祈りと賛美
ですから、47節をご覧ください。詩人は、あわれみ深い主に向かって、「お救いください。…集めてください」と祈るのです。そして、詩人は、主を見上げ、主の聖なる御名を呼ぶのです。「あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために」と主なる神の聖なる名に向かって感謝と賛美をささげるのです。
48節、詩人は、「ほむべきかな、イスラエルの神、主、とこしえから、そこしえまで」と賛美し、「民はみな『アーメン』と言え、ハレルヤ」とすべての民に向かって、恵みとあわれみに満ちた主を賛美し礼拝するようにと招いて、この詩篇第四巻を結ぶのです。
(結論) 私たちも、このような豊かな恵みと深いあわれみに満ちた主の御名に感謝し、心から賛美と礼拝をささげましょう。