礼拝説教「内住のキリストの奥義」2022年5月29日
聖書 コロサイ人への手紙1章24~29節
(序)本日は「内住のキリスト」ということを中心にお話いたします。
一、喜びをもって奮闘するパウロ
24節で、パウロは、「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとします」と言い、続いて「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」と言っています。
24節の後半は、難解な箇所です。パウロが「自分の身をもって満たしている」 という「キリストの苦しみの欠けたところ」とは、何を意味するのか様々な解釈があります。それは、十字架上でのキリストの贖罪的苦しみが不完全だと言っているのではありません。キリストの十字架上での御苦しみは、パスコーという言葉が用いられていますが(へブル5:8、マタイ16:21)、ここ24節の「キリストの苦しみ」は、スリプシスという言葉が用いられています。このスリプシスという言葉は、十字架におけるキリストの贖罪的苦しみについては用いられていません。ヨハネの福音書19章30節で、主イエスが「完了した」と言われたごとく、キリストの贖いの御業は完了し、私たちのための贖いは完成しているのです。
ですから、ここで「キリストの苦しみ」というのは、「十字架におけるキリストの贖罪的苦しみ」ではなくて、「からだなる教会の苦しみ」ということが考えられているのです。この節の前に「キリストのからだ、すなわち教会のために」という句があって、「キリストの苦しみ」が続いています。すなわち、教会と一体であるという意味において、キリストが、教会の苦しみを自らの苦しみとして下さっているということです。
使徒の働き9章5節をご覧ください。ここは、クリスチャンたちを脅かし、殺害しようとしてダマスコに向かうサウロ(後のパウロ)に、復活のキリストが現われ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と語りかけておられるところです。サウロが「主よ。あなたはどなたですか」と尋ねたのに対して、主は「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と答えておられます。そのように、キリストのからだである教会の苦しみは、すなわちキリストの苦しみなのです。その意味で、パウロは、ここで「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」と言っているのです。すなわち、25~26節に「あなたがたに神のことばを、…今は…明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです」と言っているのです。
そのために、パウロは、「うちに力強く働いてくださるキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」と言うのです。
二、今や明らかにされた奥義
そのようにパウロが喜びつつ、労苦し奮闘しているのは、「栄光に富んだ奥義」を神の聖徒たちに知らせるためだというのです。
26節を見ると、「世々の昔から多くの時代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」と言っています。
「奥義」というと、一般的に、一部の限られた人のみに与えられた特別の教えということですが、聖書において言う所の「奥義」とは、「これまで隠されていたが、ある時に、それがすべての人に明らかにされた福音の真理」を意味しています。福音の真理は、かつては隠されたままでしたが、しかし、「今や、明らかにされたんだ」と言うのです。イエス・キリストの福音は、それまで隠されており、待ち望まれていたけれども、今や明らかにされた恵みなのです。知ろうと思い、自らのものとしたいと望めば、すべての人々に与えられるのです。やがて明らかにされる事柄について語った預言者たちも、そのことを実際に自分の目で見たいと願っていた福音の真理でした。それは、異邦人である私たちさえもが与ることのできる福音でした。その「奥義」が今や、私たちの前に開かれ、私たち一人ひとりの体験とすることの出来るようになったのです。
この奥義がいかに素晴らしいものであるか、また栄光に富んだものであるかは、神の御業がどれ程、大きな愛とあわれみをもって、無きに等しい私たちをも、尊い御救いに入れて下さったかによって明らかにされているからだというのです。
三、内住のキリストの奥義
そして、1章27節において、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言うのです。
コロサイ書の中心的みことば、すなわちゴールデン・テキストと言えば、1章27節「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」の一句でしょう。口語訳では、「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」となっていました。
この聖句は、口語訳で何回もお聞きしたみことばなので、口語訳の方がわたし自身にはなじみがあります。
「輝ける栄光の主が、内に住んで下さる」とは、大いなる約束であり、イスラエルの人たちが、旧約の時代において、待ち望んでいた所の大いなる「奥義」でした。それが、主イエスの受肉降誕、十字架と復活、昇天と聖霊降臨によって、私たちの内に成就したのです。
「あなたがたの中におられるキリスト」とは、ガラテヤ人への手紙2章20節の「もはや私が生きているにではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」や、エペソ人への手紙3章17節の「信仰によって、あなたがたのうちにキリストを住まわせてくださいますように」のみことばが意味している同じ真理です。「あなたがたの中におられるキリスト」とは、主イエスとの麗しく親しい関係が意味されています。
実に、「内住のキリスト」は、「きよめの恵みの奥義」であり、「栄光の望み」です。これは、現在の恵みであるとともに、やがて訪れる終末の出来事に結び付けられている望みなのです。それは、未来における究極の栄光、完全なる栄光を示しています。この地上でたとえ、神の栄光に与ったとしても、それは、部分的な栄光を見させていただくに過ぎません。しかし、御国において、私たちは、主の完全な栄光の姿を拝することが出来るのです。
「内住のキリスト」の奥義は、すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせてくださるのです。そのような福音の真理という「奥義」を伝えんとして、パウロは、1章29節で、「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」と言っています。これは、それほどの大きな栄光に輝く望みの福音なのです。
(結論)私たちは、この栄光の望みである「内住のキリスト」の恵みを与えられていることを感謝し、この恵みを証ししましょう。