礼拝説教「和解の福音の恵み」2022年5月22日
(序)聖書に記された福音は、「和解の福音」すなわち「神との平和の福音」です。このことに関して、三つの事を申し上げたいと思います。
一、神に敵対していた過去
まず、私たちの過去が記されています。21節に「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意をいだき、悪い行いの中にありましたが」とあります。すなわち、
①神から離れていました。また、
②神に敵対していました。ヤコブの手紙4章4節によると「節操のない者たち、世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです」とあります。ヤコブの手紙2章23節では、アブラハムが「神の友と呼ばれた」とあります。世を友として神に敵対するか、神を信じて神の友となるかなのです。そして③悪い行いの中にありました。すなわち、悪を悪と思わず、平気で悪の中に生きていたというのです。
二、「和解の福音」に生かされている今
しかし、今は神様との平和をいただいて「和解の福音」に生かされています。22節に、「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました」とあるごとくです。この「和解させる」とあるところには、アポカタラスソーという言葉が用いられ、かつては親しかったが不和を生じ、敵対している者がもう一度、和解し、互いの間が回復させられることが意味されています。しかもここには、瞬間的に完結した過去の一時点を意味する不定過去というギリシア語独特の時制が用いられています。何回も和平交渉がされ、段階的に、ようやく平和条約の締結というのではなく、瞬時の完全な和解なのです。
それは、ルカによる福音書15章11~32節にある放蕩息子を迎え入れる父親のように、「神の愛」がその根底にあっての「和解」です。その方法は、第一に、「御子の肉のからだにおいて」(22節)です。ここに御子の受肉降誕があります。神の独り子である方が、人となって生まれ、地上を歩まれた33年半の生涯があります。神が私たちの中に足を踏み込んでくださった歴史があります。主イエスが、実際に、その肉体をもって苦しみを味わってくださったのです。
第二に、「その死によって」(22節)です。主イエスの十字架の上での苦しみと死の一切を通しての御業です。第三に、「十字架の血によって」(20節)です。十字架で流してくださった血潮のゆえに、私たちは、贖われ、罪赦され、神との和解を与えていただいたのです。
三、「和解の福音」の目的
22節の後半に「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところにない者として御前に立たせるためです」とあります。「和解の福音」の目的は、御前に立たせるためにあるのです。かつては神に敵対し、自分かってに歩み、罪に罪を重ねていた私たちを赦しきよめて、御前に立たせてくださるために、この「和解の福音」があるのです。
22節の「御前に立たせるためです」とあるところに用いられている「立たせる」パラステーサイという言葉は、コリント人への手紙第Ⅱ11章2節の「私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのです」というところに用いられ、「献げるために」と訳されています。この箇所は、キリストの花嫁としての教会が、キリストと結ばれることに関して述べられている箇所です。
黙示録21章2節をご覧ください。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から下って来るのを見た」とあります。ここは、キリストの花嫁である教会が、着飾った花嫁のように用意を整えて現れることを述べている箇所です。
さて、コロサイ人への手紙1章22節に戻ってください。私たちを、「聖なる者、傷のない者、責められるところにない者」として御前に立たせるために「和解の福音」があるのだというのです。キリストの血による以外に、このような者とされることは出来ません。
主イエスの血潮のみが、私たちを、「聖なる者、傷のない者、責められるところにない者」として御前に立たせてくださるのです。
(結論)最後に、23節をご覧ください。「ただし、あなたがたは、信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」とあります。私たちは、この「和解の福音」という信仰にしっかりと土台を据え、福音の望みから外れることなく、動かされる事のない者とならせていただきましょう。