説教題「新約への待望~義の太陽が昇る日」
聖書 マラキ書4章1~6節
マラキ書は旧約聖書の最後に位置していますが、新約聖書をつなぐのにふさわしい預言書です。
- 未完の書
ここで覚えたいことは旧約聖書は完結したものとは言えないということです。創世記から始まる旧約聖書は神の世界に対する祝福のプランの遂行の物語と言うことが言えます。
神の意に反して罪と死が拡大する世界に回復をもたらすべく神はイスラエルを祝福の器として召しましたが、残念ながらイスラエルは背神を重ね捕囚の憂き目に遭います。イスラエルの民は捕囚の結果、神の臨在と栄光がエルサレムから去ったことを嘆きますが、その後エルサレムへの帰還、神殿の再建が行われてもその感情が薄らぐことはありませんでした。人々は神が帰って来ることを待ち望みました。この意味で旧約聖書は未完の書と言えるのです。
- マラキの預言
そのような旧約聖書の最後を締めくくるのがマラキ書でした。このマラキ書4章は、第一に神の正義のわざの遂行を予告をします。その日、即ち神が来られる日に、世界を支配していたすべての悪が正されることを予告します。罪や悪や死の問題を扱えるのは究極的には人間ではなく神様です。神はこの世界に真の正義をもたらしてくださるのです。しかしまだその時は来ていません。
第二に、主を恐れる者にとっての解放と喜びの日の到来を予告します。その日、神を恐れる者の前に義の太陽が昇り、人々は牛舎を出た子牛のように跳ね回るという預言があります。神が来るその日は、悪にとっては滅亡を意味しますが、神を敬う者にとっては回復と癒しを意味するのです。
第三に、神が来るその日は、律法と預言書を象徴するモーセとエリアが神の傍らに立つ日であると予告します。このことはキリストの福音書を見ることによって理解することができるでしょう。その日はいつ来るのでしょう?
わたしたちはその答えを知っています。すなわちその日は、われらの主イエス・キリストがこの世に来られ、十字架の贖いを全うしてくださる日です。十字架によって真に神の臨在が回復する時、それこそが旧約の預言の成就を見る日なのです。
