説教題「神の約束~ダビデの王座はとこしえに」
聖書 Ⅱサムエル7章1~17節
いつの時代でも人々は王と称せられるような権力を持つ指導者に関心を持ちます。その人物の人格、能力、考え方で人々の置かれる状況が変わるからです。良い指導者に恵まれた人々は幸せです。
- 神の(王)国
このことはイエス様の時代においても同様のことが言えました。当時ローマに支配されていたイスラエルの民は国の復興(神の国の到来!)を望みました。イエス様はその彼らの前に立ち、「時は満ちた、神の(王)国は近づいた。悔い改めよ」と言われたのです。それはご自分が神の国をもたらすメシア(救い主)、王であることを暗示するものでした。
- ダビデの王座はとこしえに
時代を遡るとイスラエルには王政となる契機がありました。カナンに定着したイスラエルはある時期からペリシテ人の圧迫に悩まされます。そうした中、民が求めたのが強力な権力を持つ王でしたが、神様は民の求めに応じて彼らに王を与えました。しかしそれには王の権力の下に自由を失い服従するというリスクがありました。
神が立てたイスラエルの王はダビデでした。彼はイスラエルを平定して後、神の家を建てることを願います。しかし神の答えは否でした。むしろ神がダビデの家を建てる、即ちダビデ王朝の永続的存続を維持するとの約束をされました。神はダビデの王たちが神に背くならば懲らしめますが、しかしダビデの王国は永遠に続くというのです。それから時代は変遷を経てローマの支配下にあるイエス様の時代に至ります。
- アガペーの王国
イエス様の時代にダビデの王家は途絶えていましたが、なお人々の神の国の期待は収まりません。イエス様のその人々の期待を受けて活動をなさいました。しかしここで注意することがあります。イエス様が王として治める神の国は人々の思うものとは異なりました。それは十字架によって枠づけられた王国でした。それは権力者による力による支配ではなく、ご自分の命を与えるアガペーの愛によって統治する王国でした。
今わたしたちはこのイエス様の治める御国の民として生きる者となっています。主をほめたたえましょう。
