説教題「主の救いの記念の日として」
聖書 出エジプト記12章14~17節
イスラエルの記憶をたどると、最も大きな体験の一つとして行くつくのはあのエジプトの苦役から解放された「出エジプト」のできごとです。しかしその時、神がイスラエルを救うべく動かれたのは単なるイスラエルに対するあわれみからではなく、アブラハムの子孫たるイスラエルを通してこの世界を祝福するというご自身のご計画の故でした。
- 過越しのできごと
神によって立てられたモーセはパロにイスラエルの解放を求めましたがかたくなに拒まれます。イスラエルはエジプトにとっても必要な労働資源だったからです。神はエジプトに幾度もわざわいをもたらしますがパロの心はくつがえりません。そして最後にくだされたのがエジプトの人も家畜もその初子を打つという災いでした。
- この日を救いの記念として
神がエジプトの初子を打たれるに際して、イスラエルの人々にはそのわざわいを逃れる術を教えます。羊をほふり、その血を鴨居と門柱に塗ることです。そしてこの日がイスラエルにとっての救いの記念となることを告げ、彼らがそのことを忘れず主への祭りとして祝うことを命じます。
果たして神の命じられたとおり、神の使いはイスラエルの家を過ぎ越しながらエジプトの初子を打ち、ついにはエジプトの地を去ることができたのです。
- 過越しの祭りのキリスト
それから千数百年の月日の後の過越しの祭りの時に、イエス様はエルサレムにお立ちになりました。これは偶然ではなく、キリストが、ご自身の救いのわざを遂行するにあたって過ぎ越しの祭りを選ばれたことを意味します。十字架の贖いのわざはイスラエルが解放された過ぎ越しの祭りの時こそがふさわしいのです。そして新契約に基づくキリストによる救いは世界大、宇宙大の救いであり、神の国をもたらす新創造のわざであることをわたしたちは知るのです。