礼拝説教「主を自らの神とする幸い」2024年2月4日
聖書 詩篇144篇1~15節
(序)本篇は、詩篇8篇や18篇を引用し、主によって与えられる勝利と祝福を歌っています。
- 主への賛美(1~4節)
1節の「わが岩なる主が、ほめたたえられますように。戦いのために私の手を、戦のために私の指を鍛えられる方が」とは、詩篇18篇の46節の「ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神」と34節の「戦いのために私の手を鍛え」という句を引用して、主が力強いお方であり、ダビデを強くしてくださる方であることが歌われています。
パウロは、ピリピ人への手紙4章12~13節で「満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」と証ししています。また、エペソ人への手紙6章11~18節において「神のすべての武具を身に着けなさい」と勧め、「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。…信仰の盾を取りなさい。…救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。…どんなときに御霊によって祈りなさい」と勧めています。
詩篇144篇2節を見ますと、「主は私の恵み、私の砦、私のやぐら、私の救い主、私の盾、私の避け所、私の民を私に服させる方」と、主が恵み深く力に満ちておられ、私の救い主、私の避け所であってくださることがあらゆる表現を用いて歌われています。
3~4節は、一転して、詩篇8篇4節を引用して、ダビデは、自分が息や影のようなはかない存在であるのに、主が顧みてくださっているという恩寵を歌っています。主の圧倒的な恵みと支えを覚えたときに、
息や影のような存在である自分に目を向けてくださる感謝が溢れて来たのです。
- 主の介入を求める祈り(5~11節)
信仰を強められ、神を賛美したダビデは、5~7節において、大胆に主の力強い助けと介入を求めて祈っています。ここでは、詩篇18篇9節、14節、16節、45節が引用されています。しかし、それは、単なる引用というよりは、「主は、天を押し曲げて降りて来られた」というかつての大いなる御助けの経験を思い出しつつ、主の助けと介入を求めているのです。主の助けと介入を求めるばかりではありません。9節には、「神よ、あなたに私は新しい歌を歌い、十弦の琴に合わせて、ほめ歌を歌います」と楽器に合わせ、力強く主の勝利を讃美しています。ここにも詩篇33篇2~3節の引用を見ることが出来ます。
- 神の民への祝福(12~15節)
ダビデは、主なる神の圧倒的な救いと恵みを覚えたときに、同じ信仰が次世代の息子や娘たちに受け継がれ、彼らが主の豊な祝福に与り、あらゆる災いから守られる祈っているのです。
12節、息子たちが、成長する若木のように元気に育ち、娘たちが美しい彫刻が彫られた宮殿の柱のように成長しますようにと願っています。
13節、倉には穀物やあらゆる産物が満ち、野原には多くの羊で満ちるようにと祝福を祈っています。
14節、牛は子牛を産み、死産や流産もなく、繁栄と幸福な生活があるようにと祈っています。
そして15節、「幸いなことよ。…幸いなことよ」と繰り返され、「主を自らの神とする神とする民は」とこのような祝福に与っている民の幸いを歌い、神の民への祝福を祈っているのです。
(結論)百周年の記念の時を迎える私たちも、主に対する信仰を強めて頂き、大胆にその救いと御助けを求め、私たちの次の世代の人々のために祝福を祈ろうではありませんか。