礼拝説教「時満ちて」 2023年12月10日アドベント第2週
聖書 ガラテヤ人への手紙4章4~5節
(序)この所に、イエス・キリスト誕生の歴史性、神秘性、宗教性、贖罪性、恩寵性が語られているといわれます。
一、キリスト降誕の歴史性
「時が満ちて」(4節)とありますが、キリスト降誕の歴史性とは、キリストが受肉して、私たちの歴史の中に足を踏み入れ、その足跡を残されたということです。私たちは「時の流れ」に押し流されているものであり、次ぎの瞬間がどうなるか分からない有限な存在です。永遠のお方が私たちの「時の流れ」の中に足を踏み入れて下さったゆえに、私たちは、永遠なるものに繫がれたのです。選民イスラエルを取り巻く歴史上の国々は、流れる時の中に位置していますが、それぞれの国々は、神の「定められた時」のために存在していたのです。
エジプト…エジプトは、イスラエルを奴隷として苦しめましたが、そこからの解放によって、生ける神の力を示されたのです。キリストの血は、あの過越の羔の血のように、私たちを、その御力をもって救い出して下さるのです。 (BC1400)
アッシリアとバビロン…その罪のゆえに、北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダは、バビロンによって滅ぼされ、バビロンの捕囚とされます。これらの裁きの厳粛さを通して、神の義が示されました。また、これらの出来事を通して、選民の自覚を覚醒させ、メシアの出現を待望する思いを与えられたのです。(BC722,BC587)
ペルシア…メドペルシアのクロス王は、BC539 年10月10日ついにバビロンを攻略、翌BC538年、ユダヤ人は、解放され、エルサレムに帰還を許されます。そして、ついにBC516 エルサレムの神殿は70年ぶりに再建され、主イエスの活躍の舞台ができたのです。
ギリシア…BC333 アレクサンダー大王は、キリキア地峡を越え瞬く間に、ペルシア、エジプトを征服しました。それによりギリシア語がローマ帝国になって公用語として用いられ、ギリシア語訳の旧約聖書が作られ、新約聖書が書かれ、福音が広まる下地を作ったのです。
ローマ …BC31年、オクタビアヌスは、アクチュウムの海戦でアントニウスを破り、皇帝アウグストとなり、平和の時代がおとずれます。道路網は整備され、まさに福音伝播のために大きな役割を果たしました。主イエスは、このような準備され、整えられた歴史の中に人となって誕生してくださったのです。
さらに、ガラテヤ4章4節の「時が満ちて」を、預言性といっても良いでしょう。預言性とは、「神様が明確な時の一点を定め、すべての事がそれに向かって進んでいっている」という事です。神の時は、定められた一点に向かって進んでいるのです。主イエス様のご誕生は、定められた時に向かってすべての物、すべての時、すべての国が進行して、その結果としてついに、「定められた時が満ちた」というのです。特に、代々の預言者たちによって、預言に預言が重ねられ、ついにその時が到来したのです。特に、イザヤやミカの預言は、明確に主イエスの御降誕を指し示しています。イザヤ書7章14節、9章6節、ミカ書5章2節。
二、キリスト降誕の神秘性、
4節の「神はご自分の御子を、女から生まれた者」ということが、キリスト降誕の神秘性です。「神秘」とは、「人知でははかり知られない霊妙な秘密」のことを言いますが、力ある神である御子なるお方が、肉をまとい、人となって下さったことは、「神秘中の神秘」と言って良いでしょう。それは、主イエスが、私たちの弱さの極限に生きて下さり、私たちの弱さを理解して下さるためでした。主は、私たちの弱さを理解したうえで、私たち人間の罪と弱さの極限に働いて、その御力を示して下さるのです。
ですから、このアドベントに、神にすべてを委ねる信仰を持ちたいものです。
三、キリスト降誕の宗教性、
4節と5節に「律法の下に」とありますが、ここに、キリスト降誕の宗教性が示されています。「宗教性」というのはそれぞれの宗教、文化、社会によって捕らえ方が異なるので定義することが難しいのですが、少なくとも聖書における「宗教性」とは、「人が神の御前に受け容れられ、神との交わりの中に生きる」ということです。ですから、イスラエル人にとって、「律法の下に生きる」ということが、その宗教性の中心であったのです。真の宗教性を持たない私たちを、神との交わりに入れるために、主イエスは、律法の下に生れて下さったのです。主イエスは、律法の下に生まれ、生き、律法を全うし、律法からの開放をなしとげ、私たちが失った神との交わりを回復してくださったのです。
四、キリスト降誕の贖罪性
5節に「贖い出すため」(5節)とありますが、「贖う」とは、「代価を支払って買い戻すこと」です。主イエスは、十字架の死をもって、私たちの罪の代価を払ってくださり、私たちの罪を赦し、きよめ、永遠の滅びから贖い出すために受肉降誕して下さったのです。ガラテヤ3章13節をご覧ください。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」とあります。律法の下にあって、律法の行いによらなければ救われないというのは、「律法の呪いの下にあるのだ」とパウロは言うのです。しかし、キリストが十字架の上で、私たちの身代わりに、のろわれたものとなってくださったゆえに、私たちは律法ののろいから贖い出され、信仰によって義とされたのです。すなわち、キリストの血による贖い、すなわち罪の赦しを受けたのです。そこにキリスト降誕の贖罪性があるのです。エペソ人への手紙1章7節。
五、キリスト降誕の恩寵性
5節に「私たちが子としての身分を受けるためでした」とありますが、これは、子たる身分が与えられるとは考えられないような私たちにも、子たる身分がを与えられ、「アバ父よ」と呼ばせて頂ける恩寵です。「恩寵」とは、「神様の私たちに対するあわれみ深い行為」のことです。いわゆる聖書に出てくる「恵み」ということです。私たちが、罪赦されて、義とされ、「子としての身分を与えられる」ということは、「神様の恵み」以外の何ものでもありません。ローマ人への手紙8章15節を見ると、そこには、子とされることの恵みが記されています。子とされることは、「アバ父よ」と親しく呼びかけて祈り交わることがゆるされている、ということです。さらに、子とされて、キリストと共同の相続人とされるということは、やがての時にからだが贖われ、栄光のからだに変えていただく栄化の時につながっているのです。
最後に、イザヤ書62章3節をご覧ください。「あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる」とあります。子とされるということは、さらに、主の喜びの冠とされるということです。
ああ皆さん、私どもが、主のみ前に出ました時、主は、私どもに向って、微笑み、愛と愛情のすべてを傾けて、「綺麗だよ」と仰って下さるのです。
イザヤ62章3節にあるように、義と栄光に輝く者とされ、新しい名を与えられ、「主の手にある輝かしい冠」「神の手のひらにある王のかぶり物(王冠)」となるというのです。
(結論)一切は、神の定められた「時の満ちるに及んで」「定められた時が満ち」ということです。私たち個々の生涯において、神のみ心の『時』があります。「あせらず、慌てず、怠らず。」主のみ心のままに、信仰を持って堅実な歩みを辿りたいものです。神は、定めの時に、御子を人となして遣わして下さいました。それは、実に私たちを贖い、子として取り扱い、豊かな恩寵を与えてくださるためだったのです。