礼拝説教「主に信頼する人の幸い」2023年7月16日
聖書 詩篇125篇1~5節
(序)本日は、詩篇125篇よりお話し致します。
一、主に信頼する者は揺るぐことがない 1節
まず1節で、主に信頼する人とはどのような人かについて歌っています。シオン(エルサレム)は、周りを山々で囲まれており、堂々としています。
そのように、「主に信頼する人々は…揺るぐことなく、とこしえにながらえる」と言うのです。私たちも、どの様な状況に置かれても、ドッシリと動かされることのない信仰を持ちたいと思います。
マルチン・ルターは、多くの権力ある人々が敵対する中においても、「信仰のみ」を貫いて、宗教改革を断行しました。
1517年10月31日正午の鐘を合図に、95か条の質問状をヴィテンベルクの城教会の扉に打ち付けて宗教改革の火蓋を切って落としたマルチン・ルターは、ウオルムスの国会に召喚され、危険を承知の上で、「たとえ屋根の瓦の数ほど悪魔が居るとも、ウオルムスには行かねばならぬ。フスは焼かれても真理は焼かれない」と殉教を覚悟ででかけました。 1521年4月18日夕刻、国会は開かれ、ルターの前には、彼が書いた書籍が高く積まれました。ルターは、二時間余の弁明の後、「私の良心は、神の言葉につながれています。私は取り消しをしてはなりません。またしょうとも思いません。これよりほかどうする事も出来ない。我、ここに立つ。神よ、助け給え。アーメン」と結んだのでした。 私たちもこのような信仰の確信を持ちたいと思います。
二、御民を囲んで守られる主 2~5節前半
主を信頼する者が、いかなる状況に置かれても動かされることのないのは、山々がエルサレムを四方から囲んでいるように、主がその御民をとこしえまでも囲んで守っておられるからだというのです。そして、3~4節において、正しい人が悪しき事に手を染めて、罪を犯さないように守ってください。善良な人や心の直ぐな人に、いつくしみを施し、悪しきものから守ってくださいと祈っています。なぜなら、主の御民にとってどん困難や危険にも増して、堕落し罪を犯すことが一番危険だということを125篇の詩人は知っているからです。御民の心が主から離れ、悪の杖、悪の支配が、正しい人の嗣業の地にとどまり、悪の限りを尽くし、正しい人さえもが悪に手を染めるならば、主なる神は、その御民を懲らしめ、さばかれるからです。ですから詩人は、善良な人や心の直ぐな人に、いつくしみを施してくださいと祈っています。そして、主なる神は、エルサレムの内から、曲がった道にそれる者や不法を行う者を一掃されるのだと言うのです。
主の祈りの一節に「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」とありますが、私たちが悪しき者あらゆる災いから守られるということと共に、私たち自身が悪しき事に手を染めることから守られるようにとの祈りも含まれているのです。
三、未来を望み見て平和を祈る 5節後半
この詩篇は、1~2節における「エルサレムを山々が取り囲んでいるように」で始まり、5節後半の「イスラエルの上に平和があるように」で結ばれています。鍋谷という先生は、「ここにインクルージオ(囲い込み)がある」と言っておられます。すなわち、この詩全体が、主なる神様の守りと平和への祈りで囲まれているのです。
旧約聖書に、「シャローム(平和・繁栄)」という言葉が264回用いられています。そのうち詩篇では27回用いられており、エレミヤ書ではなんと29回も用いられています。エレミヤは、南ユダ王国の最暗黒、国が崩壊し、聖都エルサレムも火で焼かれ、廃墟と化し、王をはじめ多くの人々がバビロンに連行された「バビロン捕囚」の時代に主のことばを語った預言者です。エレミヤは、本当の意味でのシャロームがないのに、「シャローム。シャローム」と言って本当の悔い改めを伴わない見せかけの「平和」に安住しているエルサレムの住民に対し、厳しい裁きを預言するとともに、やがて、主なる神が民の傷を癒し回復を与えてくださり、真のシャロームが来ることを預言し、「見よ。わたしはこの都に回復と癒しを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す」(エレミヤ書33章6節)という主のことばを語っています。
(結論)山々がエルサレムを囲むように、私たちを囲んで守られる主に信頼し、あらゆる悪から守られ、真の平安に生きる者となりましょう。