礼拝説教「エッサイの根より」2022年12月11日
アドベント第3週
聖書イザヤ書11章1~10節
(序)本日のイザヤ書11章は、7章、9章に続くメシア預言です。
一、メシアに注がれる霊(2節)
メシアとは、「油注がれた者」との意味です。旧約時代、王と祭司と預言者の任職に際して、特別に聖別された油が注がれていました。それは、聖霊の注ぎを頂いて初めてその務めを全うする事が出来ることを示していました。主イエス・キリストは、まさに王の王であり、永遠の大祭司であり、預言者の中の預言者、すべての預言者が指し示していた方、ことばなる神です。
①「知恵と悟りの霊」
何が正しいか、判断し見分けるところの霊が注がれていると言うのです。私たちは、人をうわべで判断してしまい、時にとんでもない判断ミスを犯すものです。しかし、3節、主は、見るところ、聞くところによって判断なさらないと言うのです。つねに、主は、物事の本質を見極め、判断を下し給う方です。まさに、「真理の御霊」が注がれているのです。
②「思慮と力の霊」
「はかりごと」エッアーとは、イザヤ9章6節で、「助言者」として用いられている言葉と同じ言葉が用いられ、「力」は、同じくでイザヤ9章6節に「力ある神」(エル・キッボール)として用いられた言葉が使われています。すなわち、メシアである方には、計画しそれを成し遂げる知恵と力に満ちた霊が注がれているのです。「彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを持ち望む。」とイザヤ書42章2~4節にあるごとくです。
③「主を恐れる知識の霊」
深く人格的に父なる神と交わり、強い信頼と敬虔な生き方をする霊が注がれているということです。3節に「主を恐れることを喜び」とありますが、これは、喜んで、主を信じ信頼することです。今聖書研究祈祷会で、箴言を学んでいますが、「主を恐れる」ということは、箴言全体を貫く中心的主題です。箴言1章7節には、「主を恐れることは知識の初め」とあります。ここにある「主を恐れる」とは、聖なるお方の前においていだく、感謝や賛美、信頼の感情と重なり合った恐れおののきの感情です。ですからその「恐れ」とは、「愛」とも結びついており、近寄りがたいという「恐れ」とともに、「近づき、すがりたい」との感情をも含んでいる感情であると言われています。そのような主に対する「恐れ」が、知識の初め、土台、基礎なのだというのです。先日は、箴言19章23節で、「主を恐れる者」は、「いのちに至り」全てにおいて満ち足り、あらゆる災いから守られることが約束されていることを学びました。私たちも、イザヤ書11章3節にあるように、「主を恐れることを喜び」としたいと思います。
二、メシアの力ある御業(3~9節)
主は、義と公平と真実をもって、その恵みに溢れた力あるみ業を成し遂げて下さるお方です。メシアは、正義と公平をもってさばき、大いなる平和をもたらせて下さるのです(6~9節)。そこには、弱きものとどう猛なものとの共存があります。それもこれも、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」というのです。主は、私たちの罪をゆるし、神との平和を与え、恐れと不安の時にも「恐れるな、雄々しかれ、我なり」と声をかけ、地のすべてのものに真の平和(シャローム)を与えてくださるのです。
三、大いなる栄光
ばっさりと切り倒された「エッサイの株から」芽が出て、すくすくと伸び、ついには、諸国民の「旗」となり、希望となるというのです。人々がこの旗のもとに救いを求めて集り、その栄光が全地に満ちるのです。
10節に「国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」とありますが、それは何と幸いことでしょう。その恵みは、12章へと続きます。最後にイザヤ書12章1~6節を読んで終わりたいと思います。ここには、主の救いと慰めと力強い支えに対する感謝と信頼と賛美と喜びがあります。6節では、「大声をあげて喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる大いなる方」と私たちの内に臨在して下さるインマヌエルなる神に賛美がささげられています。
(結論)主イエスは、イザヤの預言したメシアとしてご降誕して下さったのです。そして、私たちは、その恵みに今与っているのです。この私たちの内に臨在して下さるインマヌエルなる神に賛美をささげましょう。