礼拝説教 「いつくしみ深い神への感謝」2022年11月13日
詩篇106篇1~23節 秋季召天者記念礼拝
(序)本日は、106篇の1~23節までを共に見たいと思います。
- いつくしみ深い神への感謝
1~5節は、この詩篇の主題です。詩人は、「ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と歌っています。すなわち、神の御忍耐と恵みといつくしみを感謝し、歌っています。出エジプト以来のイスラエルの歴史の中に見られた、神の恵みと大能の御業を覚えて感謝し、主なる神を賛美しているのです。
4~5節において、詩人は、何かよそ事の物語として、この詩篇を歌ってはいません。「私を心に留め、あなたの御救いの時に、私を顧みてください」と自らの祈り、信仰告白、喜び、誇りとしてこの詩篇を歌っています。
- 神の民イスラエルの不信仰と不従順
ところが、「私たちは、先祖と同じように罪を犯し、不義を行い、悪を行って、来ました」と歌っています。6~7節、13~22節には、神の民イスラエルの不信仰と不従順が包み隠すことなく歌われています。6~7節に、イスラエルが、罪を犯し、不義を行い、悪を行って来た歴史が凝縮して簡潔に描かれています。彼らは、主なる神の奇しい大いなる御業を見、そして体験したのに、その神の恵みと大いなる御業について、悟ることもなくまたいとも簡単にあの豊かな恵みを忘れてしまったというのです。単に忘れたというのでなく、7節には、「葦の海で逆らった」とあります。
出エジプト記14章11~12節をご覧ください。民は、不信仰に陥り、後ろに迫るエジプトの軍隊を見て恐れ、主とモーセに向かって不平を述べています。
もう一度詩篇106篇をご覧ください。8~9節で、主のご忍耐とあわれみと大いなる御力を見ることが出来ます。8節に「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた」とあります。主なる神は、紅海の水を二つに分け、民に海の底の乾いた地を渡らせ、救われました。そこで、民は、主のみことばを信じ、主への賛美を歌いました。それが、出エジプト記の14章と15章にあります。出エジプト記14章13節をご覧ください。「恐れてはならない。しっかり立って、主が今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」とあります。そして、21節、「モーセが手を伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた」とあります。そして31節、「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」とあります。詩篇106篇12節には、「すると、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った」とあります。
しかし何と言うことでしょう。詩篇106篇の13節を見ると、「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ」というのです。彼らは、何か事が起こると、
不信仰に陥り、直ぐにつぶやき、不平を起しました。主のさとし、すなわち、みことばを待ち望まなかったのです。詩篇106篇14節に、「彼らは荒野で激しい欲望にかられ、荒地で神を試みた」というのです。これは、出エジプト記16章において、民が「パンが食べたい」と不平を言い、主は天からのパンであるマナを与え、民を養われました。しかし、またしても民は「パンばかりでなく、肉が食べたい」とまたしても不平を述べます。そこで主は、うずらの大群を導いて、民に与えます。そのことについては、民数記11章に書かれています。特に民数記11章32~34節をご覧ください。民はうずらの肉を腹いっぱい食べますが、激しい疫病のために多くの者が亡くなりました。そのことを、詩篇106篇14~15節は語っているのです。
さらに、詩篇106篇16~18節は、モーセとアロンを妬んだ人々が裁かれた事が歌われています。これは、民数記16章に記された事件です。
要するに、神の民イスラエルは、主の大いなる御業を見たのに、何度も不信仰に陥り、不平不満を述べています。
三、御前の破れに立つモーセ
19~23節は、イスラエルが犯した最大の罪について語っています。すなわち、モーセが、シナイ山またはホレブの地で、主なる神から十戒の石の板を受け取っている最中に、金の牛という偶像を作ってお祭り騒ぎを行ったのでした。そのことについては、出エジプト記32章、33章に記されています。この危機的状況にあって、モーセは、いのちをかけて祈り執成したのでした。そして、頂いたのが、出エジプト記33章14節「私の臨在がともに行き、あなたを休ませる」という主のみことばです。
その時のことを詩篇106篇23節は、「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい怒りを収めていただくために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか」と語っているのです。
最後に、へブル人への手紙7章24~25節をご覧ください。「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。従ってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」とあります。すなわち、主は今も生きていて、私たち信じる者のために、父なる神に、祈り執り成していてくださるのです。
地上の生涯を終えて、すでに天に召された方々も、この主を信じ、主の執り成しの恵みの中にあるのです。
(結論)私たちも、この私たちのために十字架の上で血を流し、甦って今も生きて祈りとりなしている主イエスを信じ、共に賛美し礼拝しましょう。