礼拝説教「主に向かって喜び歌う」2022年8月21日
聖書 詩篇95篇1~11節
(序)本日の詩篇95篇は、大いなる賛美への招きが歌われてる詩篇です。
- 大いなる賛美への招き 1~5節
1節に、「さあ、主に向かって、喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう」と、主に向かっての大いなる賛美への招きが歌われています。「救いの岩」とは、主なる神が、イスラエルの民を、エジプトの圧政から、また様々な危機から、その強き御腕をもって救われた歴史を背景として歌われています。
3~5節にあるように、主は大いなる神であり、大いなる王、万物の造り主であるゆえに、感謝をもって、御前に進み、力の限りに賛美するようにと招いているのです。「救いの岩」である主は、私たちを完全に救ってくださる方であり、「大いなる神」である主は、私たちを義と愛と御力を持って治めまた守られる方です。
また万物の造り主である神は、私たちを造り、守ってくださる方です。さらに7節にあるように、私たちは、主なる神の牧場の民であり、御手の羊です。羊飼いが自分の羊を守り導くように、主なる神は、私たちを守り導いてくださいます。
ですから、大いなる感謝と喜びをもって賛美を、主に向かってささげるようにと招いているのです。まさに、毎週の礼拝は、この感謝と喜びをもってささげる主への賛美なのです。この招きに応え、感謝と喜びをもって、大いなる賛美を主におささげしましょう。
- 今日、もし御声を聞くなら 6~11節
主なる神を礼拝する時に、一番大切なのは、神様の御声に聞き従うということです。
8~9節に、メリバ、あるいはマサでの出来事が引用されています。これは、出エジプト記17章1~7節に記されている出来事です。イスラエルの民は、主なる神の強い御手によってエジプトの圧政から逃れ、海の真ん中に道を開いて頂いて助けられるという主なる神の大いなる御業を目撃したのに、荒野で水がなくなったとき、不信仰を起し、不平を言い、呟きました。モーセが神様のご命令によって岩を討つと岩から水が出て来ました。その所の名をメリバあるいはマサと呼んだのです。
イスラエルの民は、しばしば神様の御声を聞きながら、その心をかたくなにして、神様の御声に聞き従いませんでした。その不信仰と不従順のゆえに、イスラエルの民は40年の間荒野をさ迷いました。40年と言えば一世代です。民の不信仰のゆえに、一世代がガラリと変わってしまうまで、イスラエルは約束の地に入ることができないで、40年の間、荒野を旅しなければなりませんでした。そのことは、民数記14章に記されています。
詩篇95篇7~8節をご覧ください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と警告されています。不信仰と不従順のために、イスラエルの民は、40年の間約束の地に入れませんでした。そのように、私たちも、「不信仰と不従順のために、約束の地に入ることを許されない」ということのないようにしたいと思います。
- 恵みの御座に近づこう
さて、へブル人への手紙3章7節以下をご覧ください。3回(3章7節、15節、4章7節)「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と記されています。心を頑なにして、約束の地に入ることを許されなかったイスラエルの民のようになることなく、「御声を聞いたなら、従順にその御声に聞き従いなさい」と勧めているのです。
そして、4章12節において、「神のことばは生きていて、力がある」と言っています。神のみことばは、力ある生きたことばです。この神のことばの前に、すべての人の心の思いは明らかにされ、さらけ出されているのです。
ここを読むたびに、執刀医のメスを思います。執刀医は傷つけるためにメスを入れるのではありません。悪いところを取り除いて、癒すためにメスを入れるのです。ですから4章15~16節をご覧ください。そこには、神のあわれみと癒しがあります。同情深い大祭司である主イエスがおられ、私たちは、主イエスの執り成しのゆえに、「あわれみを受け、恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。助けを受けるために、ただあわれみと恵みのゆえに、大胆に御前に近づくことができるのです。
(結論)心を頑なにすることなく、今日、神の御声を聞かせていただいて、主イエスを信じ、助けを受けるために、ただあわれみと恵みのゆえに、大胆に御前に近づく者として頂きましょう。