礼拝説教「キリストに仕える」2022年7月24日
聖書 コロサイ人への手紙3章22節~4章1節
(序)コロサイ書の携帯者テキコと共に、オネシモが同行し、彼の懐には、ピレモンへの手紙が携えられていました。オネシモは、コロサイ教会の信者ピレモンの逃亡奴隷でありましたが、ローマでパウロに出会って、救われ、再びピレモンの下に返されたのです。それゆえに、パウロは、他の書簡にまさって丁寧に、僕への勧めを行っています。ピレモンの手紙と共にこの箇所を合わせて読んだオネシモは、感謝して涙したに違いありません。
一、真心をこめて仕える
ここに勧められているのは、真実をもって、裏表なく仕えることです。人の賞賛を買おうとただ目先だけの勤めをしてはなりません。どんな時も、人が見ていても、あるいは見ていなくても、「真心から従いなさい」と言うのです。「真心から」とは、「ふた心」の反対であり、一筋の心です。クリスチャンはいつも「ふた心のない忠実な奉仕」をする者でありたいと思います。特に、「神の奥義」、すなわち、「福音の恵み」を管理する者として、私たちは忠実であることが求められています。ですから、時が良くても悪くても、忠実に主のみことばを宣べ伝えましょう。私たちが、この世のことに忠実でなかったなら、福音をどんなに伝えても人々は耳を貸さないでしょう。その意味で私たちは、まず、それぞれ遣わされた所で良き証しを立てなければなりません。また同時に、福音を機会あるごとに伝える者となりたいと思います。さらに私たちは、22節の「主を恐れつつ」という一句をも見逃してはなりません。いつも、主の目が、そこにあることを覚えて心をこめて働きたいと思います。
二、主から受ける報い
その様に、真実に、心を尽くして働いている人を、人は放っては置きません。必ず人の目につくものです。しかし、たとえ人に認められなくても、神は御覧になっておられます。ですから23節で「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心から行いなさい」と言うのです。
24~25節をご覧ください。神様御自身が、私たちのために、ご褒美を用意していてくださっているのです。すなわち、私たちに対するご褒美は、「御国を受け継ぐ」ということです。それは、「朽ちず汚れず、萎むことのない資産」です。
ルカの福音書12章35~48節をご覧ください。私たちは、「忠実で賢い管理人」として、主がやがて再臨されるその日、その時、を覚えて忠実に励みましょう。
三、共に主に仕える
続いて、4章1節をご覧ください。ここは、主人への勧めです。今で言うと「社長さん」「経営者」「上司」と言えるでしょう。これらの人々には、「正義と公平」さが求められています。主人たる者は、しばしば自分たちの利益のみを追求し、正義とか公平さを欠いてしまうことがあります。主は、これらの主人の業をも見ておられるのです。ですから、「あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから」と言うのです。すなわち、僕も、主人も、結局は、主に仕えているのです。その事を忘れ、気ままで身勝手なふるまいをしてはならないのです。マタイの福音書20章26~28節をご覧ください。「皆に仕える者になりなさい。…皆のしもべとなりなさい」と主イエスが勧めておられます。
しかもそれに、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」と付け加えておられます。主ご自身が「仕える人」「しもべ」となり、さらに「贖いの代価」となってくださったのです。そのことを覚え、私たちも互いに仕え合う者となりましょう。
最後に、ピレモン書9~19節をご覧ください。ここに、かつては、ピレモンのところから金銭を持ち逃げしたのでしょうか。とにかく逃亡奴隷であり、「無益な僕」であったオネシモが、キリストを信じて、「有益な者」と変えられたことを、パウロは、切々と説き、彼を受け入れてほしいと執り成しています。まさにこのオネシモをとりなしているパウロの姿は、私たちのために、ご自分のいのちを「贖いの代価」として投げ出してまで執り成していて下さる主イエスの御姿に重なって見えます。この私たちの「主」「贖い主」なるお方に、心より仕えてゆきたいと思います。
(結論)どんな人にも真心を込めて仕えましょう。全ての報いは主から与えられます。全ての人が主に仕えるべきことを忘れないようにしましょう。そして、神であるのに、人となり、「仕える人」「しもべ」さらに「贖いの代価」となって、私たちを救って下さった主に、心より仕えてゆきたいと思います。