礼拝説教「キリスト者の歩み」2022年7月10日
聖書 コロサイ人への手紙3章15~17節
(序)本日は、「キリスト者の歩み」について、三つのことを申し上げたいと思います。18節からいよいよ、実践の部に入り、具体的な勧めをパウロはしていますが、本日の箇所は、実践の部分に入る前に、基本的な心構えを記しています。
一、キリストの平和による支配
主イエスは、ヨハネ14章1節で「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われ、
27節では、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」と言っておられます。すなわち、主イエスが弟子たちに残したものは、平和でした。しかも、主イエスが残された「平和」とは、世が与えるものとは異なる平和だと言うのです。それは、神に従う時に与えられる平和であり、神と心が一つになるという平和です。「支配するようにしなさい」とは、「審判者としなさい」という事です。日々の歩みの中で、時として起こってくる争いや意見の相違、また、重大な決定を下さなければない時に、「キリストの平和」をして「審判者としなさい」と言うのです。そして、そのために召されて一つとなったのであり、「キリストの平和」に従った結果として、「感謝の心を持つ者」とされるのです。
二、キリストのことばの内住
16節に、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」とあります。私たちは、みことばをどれほど蓄えているでしょうか。単に覚えると言うのではありません。「住むようにしなさい」、「宿らせなさい」というのです。みことばを、それぞれの体験として心の中に蓄えるということです。この「住むようにしなさい」とは、エノイケオーという言葉が使われています。これは、エン(中に)という語とオイケオー(住む)という字が合成されて出来ている言葉です。それは、「キリストの言葉が、内に宿って、私たちを強め、導いてくださる」ということです。しかも、「豊かに」と言うのです。チョコットだけではないのです。「豊かに」です。ですから、キリストのことばは、私たちの宝であり、財産なのです。私たちの歩みを強め、正しくし、励まし、喜びに満たし、信仰と希望と愛を与えるところのものです。ですから、その結果として、「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」と言うのです。
三、主イエスの御名によることばと行い
最後に、17節をご覧ください。「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい」とあります。ことばや行いにおいて、「いっさいを主イエスの名によって行いなさい」と言うのです。
聖書において「名」とは、単なる符号としての固有名詞ではありません。その名を持つ者の本質を表現しています。特に「神の御名」は、神の臨在の保証として考えられていました(出エジプト20:24 )。また、神の臨在の場所である聖所と関連づけられていました。「あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、…選ばれる場所」と申命記12:5にはあります。さらに、「神の御名」は、神がそれによってご自身の力を現すところの表現です。詩篇54篇1節には「神よ、あなたの御名によって私をお救いください」とあります。マタイの福音者18章20節では、「わたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」と主イエスが語っておられます。ですから、「主イエスの名によって」ということは、キリストの愛と力、そして、そこにキリストが「御名と共に」臨在しておられるということです。その「主イエスの名」によって、「語りなさい。行いなさい」というのです。そして、そこには、「父なる神に感謝し」と感謝があります。
(結論)先週も申し上げましたが、大切なことですので、再び申し上げます。12節にあるように、なによりも、まず私たちの自己認識の根底に、「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」であるという恩寵の認識を持っていただきたいのです。この「私たちは、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者である」というキリスト者としての恩寵の自己意識こそ、すべてのことの根底だからです。その上で、私たちの「日々の歩み」の基本として、この「キリストの平和による支配」「キリストのことばの内住」「主イエスの御名によることばと行い」を実行して参りましょう。