礼拝説教「キリスト者の装い」2022年7月3日
聖書 コロサイ人への手紙3章12~14節
(序)本日は、「キリスト者の装い」について、三つのことを申し上げたいと思います。ここで言う「キリスト者の装い」とは、何を着るかといった外の飾りでなく、心の飾りのことです。
一、キリスト者とは何者か
まず覚えたいのは、「キリスト者とは何者か」、つまりどの様に生きるかの前に、「どのような者」、「どの様な本質の者としていただいているのか」ということです。12節において、パウロは、コロサイの教会の人々に対し「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」と呼びかけています。
すなわち、キリスト者とは、
1.選ばれた者
第1に、「神に選ばれた者」です。「選ばれた者」とは、ギリシア語でエクレクトスという言葉が使われています。これは、「優秀なエリ抜きの選抜された者」という意味の言葉です。しかし、私たちは、何か人間的に才能があるとか、知恵があるからとか、力があるからとかという理由で選ばれているのではありません。むしろ無きに等しいものを選んでくださったのです。第1コリント1章26~28節には、「この世の愚かな者を選び…、この世の弱い者を選ばれました。…有る者を無い者とするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです」とあります。申命記7章6~7節もご覧ください。主なる神は、イスラエルを「宝の民」として選ばれたことが述べられています。それは、イスラエルの民の数が多かったからでなく、ただ神の恵みのゆえの選びであったのです。私たちも、ただ主なる神の恵みのゆえに、 神の特別の宝として選ばれたのです。実に私たちは、「神のエクレクトス」なのです。私たちでなく、主が私たちを愛し、私たちを選んでくださったのです(ヨハネの福音書15章16節)。
2.聖なる者
第2に、キリスト者とは、「聖なる者」というのです。
「聖なる者」とは、他の者より区別され、特別の者とされているということです。出エジプト記11章7節に、「こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになる」とあります。エジプト人の頑なさのゆえに。神様は、十の災いをエジプトに下されました。その時、主なる神は、イスラエルをエジプトとは区別されたのです。その際の区別が、出エジプト記12章13節いあります。それは、過越しの祭りの起源となった出来事でした。
3.愛されている者
第3に、「愛されている者」というのです。「神に愛されている者」であるとは何という恵みでしょう。イザヤ43章4節には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と神様が直接的に私たちにご自身の愛を伝えてくださっています。 ローマ人への手紙9章25~26節もご覧ください。ここは、ホセア書1章10節、2章1節、23節を引用して、主なる神が、異邦人の私たちを愛してくださったことが記されています。実に私たちは、「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」とされているのです。
二、キリスト者の装い
そのように「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」とされているのだから、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と言うのです。ここに、キリスト者の着るべき5枚重ねがあると言われます。
1.「深い慈愛の心」とは、憐れみに満ちた、同情深い心を持っているということです。「深い愛のはらわた」です。すなわち、他の人に深い同情の心をもって寄り添うということです。これは、一番心の奥深くの愛の心であり、例えるなら直接肌に触れた肌着のような部分だと言うことが出来ます。
2.「親切」とは、「人に対する思いやりある優しさ」です。他の訳では「慈愛」と訳されています。ギリシア語ではクレーストテースという言葉が用いられています。関連した言葉のクレーストスは、マタイの福音書11章30節において主イエスが、「わたしのくびきは負いやすく、…」と言われている所に使われています。すなわち「親切」、あるいは「慈愛」とは、それぞれの人と場合に適した心地よい態度です。「傍らに寄り添って、ソーと包むような優しさ」です。それは、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ローマ12:15)と言われている心の態度です。
3.「謙遜」とは、他者のどの様な態度にも、自らを低くし、自らの立場と権利を主張しない事です。ピリピ人への手紙2章6~8節では、「主イエスの7段の遜り」について記し、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」とあります。第1ペテロ5章5節では、「互いに謙遜を身に着けなさい」と命じられています。エプロンを着けるように、互いに謙遜に仕え合うのです。
4.「柔和」とは、自らを貧しき神の僕として、神のみこころに完全に従順であり、隣人に対して怒りや傲慢な思いをいだかない心の態度です。「謙遜」と「柔和」はしばしば共に用いられており、主イエスは、「わたしは柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます」(マタイ11:29)と言っておられます。
5.「寛容」とは、マクロスミアというギリシア語が用いられており、細かいことをごちゃごちゃと言わない、広い大きな心の態度です。いわゆる包容力です。
これら「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」を身につけって、具体的に「互いに忍耐し合い、…互いに許し合いなさい」と言うのです。
三、すべてを完全に結ぶ帯
最後、14節をご覧ください。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です」とあります。「愛」は、「すべてを完全に結ぶ帯」なのです。愛は、①律法を完成し(ローマ13:10)、②多くの罪を覆い(第Ⅰペテロ4章8節)、③恐れを取り除き(第Ⅰヨハネ4:18)、④いつまでも存続する最も大いなるものです(第Ⅰコリント13:13)。
ここにキリスト者の装いの完成があります。
(結論)私たちのキリスト者としての装いは乱れていないでしょうか。前掛けはどこかに忘れてはいませんでしょうか。私たちの帯は緩んでいませんでしょうか。そして、なによりも、まず私たちの自己認識の根底に、「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」であるという恩寵の認識を持たせていただきたいと思います。この「私たちは、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者である」というキリスト者としての恩寵の自己意識こそ、すべてのことの根底なのです。