聖書 コロサイ人への手紙3章1~11節
(序)先週及び本日の聖書箇所は、「死んでいたのが生かされ、共に葬られ、共によみがえらされ、共に隠され、共に現れる。これは、クリスチャンの一代記である」とよく小島伊助先生から聞かされた箇所です。1節に「このように…だから」とあります。恩寵の一代記を与えられている事を覚える時、地上のものに心を引かれず、上にあるものを求めなさいというのです。この朝、三つの事を申し上げたいと思います。
一、キリストと共に生かされる恵み
2章13節に「キリスト共に生かしてくださいました」とあります。すなわち、先には、闇の下、罪の中に、死んでいたものである私たちが、キリストを信じた時から、罪ゆるされ、愛する御子の支配下に移された、という恵みです。私は、3~7才の頃は、山内さんという方が家を解放して開いておられた教会学校の分校に行っていました。しかし、山内さんのご一家がご主人の転勤で転居され、分校は無くなり、教会から離れていました。そして、①友達に②家族に③そして自分自身に失望していました。そうした時、祖母が1959年8月8日に亡くなり、お葬式の後、それまでキリスト教嫌いであった祖父が、「私の家でも集会をして頂けんでしょうか」と香登教会の高橋虎夫先生に願い出てから、家庭集会が始まり、御言葉を真剣に聞くようになりました。そして、第1コリント1章28節の「無きに等しい者をあえて選ばれたのである」との御言葉に接し、救いの恵みをいただきました。私たちは、これまでの様々な出来事を振り返って、「もし私があの時、イエスさまを信じていなかったら、どうなっていたであろう」と思うと、救われたことの感謝で一杯になります。
二、キリストと共に甦えらされる恵み
聖書は、「共に生かされた」というだけでなく、「共に甦えらされた」と言っています。3章1節に、「ともによみがえらたのなら」とあります。すなわち、そこには、「共に死んで、共に甦える」というクリスチャンの経験があります。いわゆる「きよめの経験」「第2の恩寵」といわれている経験です。この「きよめの経験」のための秘訣が、「共に死んで、共に甦える」という事です。
- 「共に死ぬ」とは「共に十字架につけられた」という経験です。5節、10節、「殺してしまいなさい」「脱ぎ捨てなさい」とは、はっきりとした明確な一時点を示す表現がここにはしてあります。「一撃のもとに殺しなさい」「スッパリと脱ぎ捨てなさい」というのです。それは、「古き私という肉性はキリスト共に十字架につけられました」と信仰をもって、意志的に受け取ることです。
- 「共に甦える」とは、言い換えるなら3章10節にあるように「キリストを着る」ということです。
- そして、きよめられた者の歩みがそれに続きます。コロサイ1章27節の「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」とかガラテヤ2章20節の「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」文語訳で「キリストとわが内に有りて生くるなり」ということであり、その具体的な秘訣が、15~17節にあり、実践的勧めが19節以下にあります。
すなわち、⓵キリストの平和が心を支配するようにしなさい(15節。)②キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい(16節)。③すべてを主イエスの名において行いなさい(17節)と勧められています。
あるとき、長い間教会から離れていたが、その信仰を回復されて喜びに満たされた一人の女性が、多額の献金と共に手紙を下さったことがあります。その手紙には、「み心のままにということは、大変なことだと思っていました。しかし、従ってみると、これ程楽しく、楽なものはない。なぜなら、私が~をしなければと思う前に、主が一切を備えていて下さることが分かりました」とありました。そうです。「キリストと共に死に、キリスト共に甦えらされる」ことは、主が与えてくださっている大いなる恵みなのです。
三、キリスト共に隠され、共に現れる恵み
最後に、3章3~4節をご覧ください。「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます」とあります。私たちのいのちは、キリストと共に神のうちに隠され、キリストと共に栄光のうちに現れるというのです。私たちは、もろく、弱い存在です。しかし、キリストのうちに隠されているとは何と言う幸いでしょう。私たちは、キリストによって覆われ、キリストのうちに隠されているのです。
私は、「キリストのうちに隠される」ということを黙想した時に、
詩篇91篇が思い浮かびました。そこで、詩篇91編をご覧ください。1~9節に、全能者の陰に宿り、主に向かって「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と言う者の幸いが記されています。「至上者(いとたかきもの)のもとなる隠れたる所に住まふその人は全能者の蔭にやどらん」(1節、文語訳)。「いと高き方の隠れ場」すなわち神の臨在の場所であり、至聖所です。私たちが「神様!」と父なる神様の懐に駆け込んでまいりますときに、真の解決と慰めと平安が与えられます。主は、私たちを覆い、あらゆる悪しきものから守ってくださるのです。狩人のように密かに待ち構えている災い、いつやって来るとも分からない静かに侵入してくる危険、夜昼かまわず災いがわたしたちの周りに襲ってきます。しかし、全能なる神は、親鳥がその雛の上に翼を広げて守るように、私たちを守ってくださるのです。ときどき、逃れて行くというのではありません。そこに共に住まわせていただくのです。全能者の陰に宿る者とされているとはなんという幸いでしょう。主は、ご自分の羽で、私たちを覆い、私たちはその翼の下に身を避けるのです。主のご真実こそ私たちをすっぽりと包む大盾であり、小盾(口語訳、新共同訳、元訳いずれも小盾、「とりで」)なのです。
一切の支配と権威といのちの源は、キリストの内にあり、キリストのゆえに、御国に入ることを許され、やがてのとき、命の冠、義の冠、栄光の冠を頂くものとされるのです。私たちは、資格のない、無きに等しい者であるのに、ただキリストを信じるだけで、このような栄光に浴する恵みをいただいているのです。
(結論)このような素晴らしい恵みを頂いているのですから、過ぎ去ってしまう地上のものに心引かれることなく、上にあるものを求めましょう。