礼拝説教「御子の卓越性とその栄光」(2)2022年5月15日
聖書 コロサイ人への手紙1章18~20節 ㋄教会総会
(序)本日は、先週に続いて「御子の卓越性とその栄光」についてお話しします。
一、教会のかしら(18節)
主イエスは、万物の主であるばかりではありません。教会のかしらです。死より甦って、勝利し、私たちを罪と死に勝利させてくださる方です。このお方こそが「教会のかしら」です。このお方をかしらとして、生きた人格的結合を保つ所に、キリスト者の、そして教会の存在があります。それは、ぶどうの木とその枝で表わされています。
18節の「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」とあるところを 直訳すれば「また、彼こそは教会というからだのかしらです」となります。すなわち「彼は」が強調されています。H.C.G.モールは、これを「重大な強調」solem emphasisと呼んでいます。「彼こそは、…かしら」と訳せばよいでしょうか。「かしら」とは、からだの隅々にわたって指示を与え、統括し、力を与え、命を供給する活動の中枢であり、互いに組み合わせられたからだの中心です。
「そのからだである教会の」とありますが、ここに教会の一体性が示されています。教会というのは、キリストによって選ばれ、贖われ、呼び集められた者の総体を言います。それは、烏合の衆、個々別々にただ集まっているというようなものではありません。キリストをかしらとして互いに一つにさせられているものなのです。ですから、一人が痛めば、全体の痛みとなり、一人が喜べは、全体の喜びとなるような一つのからだなのです。そうした意味でキリストこそは、「からだなる教会のかしら」なのです。
二、死人の中から最初に生まれた方(18節)
18節の「御子は初めであり」とは、「時間的な初め」を指すと共に、「根源的な力の根源」を意味しています。キリストは、教会が教会として存在するために、「初め」となって下さった方です。キリストは、万物に対してのみ「初め」となられたのではなく、教会に対しても、「初め」となられたのです。ですから、黙示録を見ると、キリストは「わたしは、アルパであり、オメガである。…わたしは初めであり、終りであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている」(黙示録1:8、17~18) と語っておられます。また、へブル人への手紙12章2節には、「信仰の創始者であり、完成者であるキリストから目を離さないでいなさい」とあります。すなわち、主イエスは、初めであり、終わりであり、甦って今も生きておられるお方です。ご自身の十字架の贖いによって「新しい生きた道」を開いてくださり、誰でもが、ただ信仰によってこの「新しい生きた道」を通って父なる神に近づくことが出来るようにしてくださった方です。ですから、「キリストから目を離さないでいなさい」というのです。
また、コロサイ人への手紙1章18節の「最初に生れたかた」とは、主イエスの復活のことを言っています。すなわち「最初に復活されたキリスト」にあって私たちもまた甦りのいのちに生かされる者とされることが約束されているのです。
三、満ち満ちた神のご本質を宿すお方
19~20節は、「贖罪的栄光の絶頂」です。19節に「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ」とあります。「宿らせ」とは、一時的な宿りでなく、永遠の住込みを意味しています。「満ち満ちた」(プレローマ)とは、パウロの好きな言葉で、パウロによってたびたび用いられていますが、神の本質と属性のすべてが、「充満している」ということです。ですから、欄外には、「満ち満ちた神の本質を」と注が付けられています。すなわち、私たちに分かるはっきりとした形をとつて神のご本質を現わして下さったというのです。しかも、それは、20節に示されている「和解」のためだというのです。
四、和解をもたらしてくださった方
20節に、「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために、万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです」とあります。神の独り子イエス・キリスト様が人となって33年半の地上のきよきご生涯を送り、十字架の上で流してくださった血潮は、この事のためたったのです。傷もなく汚れもない神の小羊の十字架の死によって、私たちは、神との平和をいただいたのです。そして、それは、私たち一人に留まるのではなく、全世界、全人類、全被造物にまでおよぶというのです。
ローマ人への手紙8章21~22節をご覧ください。全被造物が、主の再臨の時、滅びの束縛から解放されて、私たちと同じ栄光の自由にあずかるときをうめきながら待ち望んでいるというのです。かつてワトソンいう方が、「犬が尾を振りながら主人を見上げる目の中に『主イエスよ来り給え』と待ち望むひらめきがある。牛がモーと鳴く声の中に、栄光の自由に入るうめきが聞こえる」と言われたと小島伊助先生は書いておられます。
最後に、詩篇96篇をご覧ください。森山諭先生は、『冬になる前に』という説教集の中、「万物更新の時」と題する説教の最後に、この詩篇96篇を記しておられます。まさに、私たちのからだが贖われ、万物さえもが和解の恵みにあずかり、主の御前に喜び躍る時が歌われているのです。「主は必ず来られる。地をさばくために来られる。主は 義をもって世界を その真実をもって諸国の民をさばかれる」(詩篇96篇13節)のです。
それゆえにこそ、「ご自身がすべてのことにおいて第一の者」(コロサイ人への手紙1章18節)なのです。
(結論)この「キリストが第一」ということが、教会の、そして私たちキリスト者のあるべき姿ではないでしょうか。