礼拝説教「人の子が栄光を受ける時」2022年4月3日
聖書 ヨハネの福音書12章20~41節
(序)本日の箇所は、受難週における出来事の一つです。
一、主イエスのご苦難の予告
ユダヤ教に改宗したギリシア人でピリポの郷里ベツサイダに住んでいたであろう人々が、礼拝のためにエルサレムに来ていました。彼らがピリポの所に来て、主イエスにお会いしたいと申し出ました。ピリポはアンデレに相談し、二人でイエス様に報告しました。するとイエス様は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(23節)と宣言されました。そして、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(24節)と言われます。それは、自然界の法則を例として取り上げ、ご自分が受けようとする苦難とその後の栄光について言われたのです。主イエスのご苦難についての予告です。すなわち、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべて人々に、罪が赦され、永遠のいのちに与ることの出来る時が到来したことを告げられたのです。それは、一粒の麦が落ちて死ぬことによって、多くの実を結ぶように、イエス様が十字架にいのちを投げ出すことによって、多くの人が救いに与ることを言われたのです。
二、主イエスの栄光
27節は、第4福音書におけるゲツセマネであると言われています。十字架における贖いの時が来たことを知られた主イエス様は一瞬心の動揺を感じられ、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。」と言われます。しかし、それを否定して、「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」(27節)とおっしゃり、「父よ。御名の栄光を現してください」(28節)と祈られました。すると「わたしは栄光をすでに現した。わたしは再び栄光を現そう」(28節)と天からの声がしました。そばにいた群衆は、雷が鳴ったのかと思いましたが、主イエスは、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。…わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」と言われました。これについて、ヨハネは説明をし「これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである」(33節)と注釈を加えています。
37~41節をご覧ください。主イエスが多くのしるしを行われたのに、ユダヤ人の人々が信じなかったことについて、ヨハネは、イザヤの預言を引用し、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである」と証言しています。38節と40節は、イザヤ書53章1節とイザヤ書6章10節からの引用です。イザヤ書6章の「万軍の主の栄光」は、主イエスの栄光であり、イザヤ書53章の「主の僕の代償的苦難において現された栄光」は、主イエスの栄光であったとヨハネは結論づけているのです。
三、私たちの苦難と栄光
「一粒の麦」の真理は、すべての信仰者にも当てはまります。自分を生かそうとする自己中心な生活を放棄し、仕える生き方をする者は、豊かな永遠のいのちに与ることが出来るのです。そのような生涯を送るために、私たちは、模範を示してくださった主イエス様に従い、イエス様のいと近くに留まり、主に仕える必要があるのです。そして、そのような人を、父なる神様は、重んじ、報いてくださるのです(26節)。ここに、主イエスに従う私たちに与えられた苦難と栄光があるのです。
(結論)私たちも、イエス様のいと近くに留まり、主イエスに仕え、父なる神様に重んじられ、報いを受ける者となりましょう。