礼拝説教「聖徒たちの信仰と愛と望み」2022年2月27日
聖書 コロサイ人への手紙1章3~5節
(序)パウロは、いつも手紙を書く時、まず手紙を受け取る人々を覚え、まず感謝を神にささげています。私たちも、手紙を書くにしろ、電話をするにしろ、メールを送るにしても、まず主に感謝するところから始めるならば、互いになんと素晴らしい交わりとなることでしょう。パウロの
感謝する内容が4~5節にあります。
一、イエス・キリストに対する信仰
感謝の第一は、コロサイの人々の「キリスト・イエスに対する信仰」です。「キリスト・イエスに対する信仰」と訳されていますが、正確には、in
Christ Jesus 「キリスト・イエスにある信仰」とパウロは記しています。
どちらも同じように、主イエスを信じるということにおいては変わらないのですが、「キリスト・イエスにある信仰」とは、その人の信仰が主イエスの内にしっかりと根を張っているわけです。その人の信仰が存在の根底において、キリスト・イエスの内に切っても切れないものとして結びついているのです。ですから、ブドウの幹と枝のように、霊的にしっかりと結ばれ、神の霊的いのちが主イエス・キリストを通して一人ひとりの内に注がれ、実を結ぶ者とされるのです。
ヨハネの福音書15章4~5節をご覧ください。
<例話>真のブドウの木:幹から離れた枝:ヨハネ15:4~6
私たちは、キリストから離れては、実を結ぶ事もできないし、外に投げ捨てられて、焼かれてしまいます。この朝、私たちはキリストに結び付いているでしょうか。私の伯父は、キリストを信じる前は煙草をつくっていましたが、クリスチャンになってから、職業変え、ブドウをつくり始めました。初め随分苦労した様です。近所に葡萄作りの名人がいましてその人に教わりながら始めました。「名人になると凄い。遠くから畑を見ただけでどこに虫が巣くっているか分かる」と伯父さんが言っていました。素人が見るとつながっているようでも、名人の目はごまかせません。ピタッと当ててしまいます。離れているか、離れていないか、人の目はごまかせても、自分自身と神様の目はごまかせません。主は、「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。つながらせていただこうではありませんか。
4節、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(新改訳)「我におれ、さらば我汝らにおらん。」(文語)英訳では
Abide in me, and I in you モファット訳はcontinue in meと訳しています。そこには、間断なきキリストとの生ける交わりがあります。実に生命的なつながりです。これなくして、キリスト者はやっていけません。主イエス・キリストとつながっていてこそ、キリスト者としての存在があるのです。
二、すべての聖徒に対する愛
4節に、「すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです」とあります。主イエスに対する信仰、すなわち神様の私たちに対する変わることのない愛がわかると必ずそこには、人に対する愛がわいてきます。ヨハネの第Ⅰの手紙4章7~11節をご覧ください。使徒ヨハネは、神様の愛がどれほど大きいかをのべ、互いに愛し合うべきことを勧めています。
三、天に備えられている望み
5節を見ると「それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので」とあります。信仰も愛も、やがて天においていただくところの確かな望みに根差しているのです。永遠のいのち、朽ちることも、汚れることも、消え去ることもない天の資産が、主イエスの来臨の時に天に蓄えられているのです。その確かな望みを根拠にして私たちの信仰も愛も存在しているのです。第1ペテロ1章3~5節
(結論)主イエス・キリストにしっかりと繋がり、主のいのちに生かされ、互いに愛し、確かな望みに生きる者となりましょう。