礼拝説教「義の冠が備わっている」2021年7月18日
聖書 テモテへの手紙 第二 4章1~8節
(序)本日と次回でもって、テモテへの手紙からのメッセージを終わりたいと思います。4章1~5節は、「時を失うことなく」という題で、すでにお話ししていますので、本日は、6節から始めたいと思います。
一、世を去るべき時の覚悟 6節
パウロは、2節で「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と命じ、5節で、「伝道者としての働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい」とテモテを励ましていますが、6~8節で、自らの地上を去る時が、いよいよ来たことを覚悟し、その生涯を振り返って、現在の自らの心境を語っています。
6節、「私はすでに注ぎのささげ物となっています」と述べ、続いて「私が世を去る時が来ました」(6節)と死が目の前に現実として迫っている緊迫した出来事として語っています。 「世を去る」アナリュシスとは、船が係留を解いて岸壁を離れて行く場合、あるいは兵士が前進するために、テントの綱を緩める場合に用いられる言葉であり、「出発する」との意味です。パウロの目には、いよいよ係留が解かれ、御国へと船出する時の来たことが見えていたのです。
二、勇敢な信仰の精兵卒パウロ 7節
これから旅立って行こうとする御国を思いつつ、パウロは、これまでの自らの生涯を振り返って、その信仰生涯を、「戦い抜き…走り終え…守り通したました」と3つの動詞でもって言い表しています。
それは、回心のとき以来、変わることのないパウロの信仰生活の生きざまでした。そこには、勇敢な信仰の精兵卒としてのパウロの姿があり、何ものにも揺るがされない確固とした信仰の姿勢があります。そこには、勇敢な信仰の精兵卒としての姿が、ぶれることなく続いていることを示しています。
7節に「勇敢に戦い抜き」とあります。パウロは、神の大能の力、あるいは内に働くキリストの力によって強められ、良き戦いを勇敢に戦い抜いたのです。聖書の欄外には、直訳として、「良き戦い」と書かれています。私たちも、主によって強められて、信仰の良き戦いをりっぱに戦い抜きましょう。
この時、パウロの脳裏には、闘技をすること、あるいは戦場での戦いのことがあったのではないかという二つの説があります。
7節、「走るべき道のりを走り終え」とは、マラソンなどの競争において定められたコースを完走することが意味されています。
使徒の働き20章24節を見ると、パウロが、ミレトにおいてエペソの長老たちと別れエルサレムに上って行く時に語ったことばとして、「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒の働き20:24)とあります。既にパウロはこのような覚悟をもって、福音の宣教に生きていたことを見ることができます。
「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12章1~2節)とあるごとく、主が私たち一人ひとりに定めておられる人生のコースを、重荷とまつわりつく罪を捨て、忍耐をもって、信仰の創始者であり、完成者である主イエスを仰ぎ見つつ完走いたしましょう。
7節に「信仰を守り通しました」とありますが、パウロは、その生涯変わることなく、信仰を守り通したことを証しているのです。
三、義の冠が備わっているとの望み 8節
8節をご覧ください。「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」(8節)と言っています。信仰の馳場を走り終え、地上においてなすべき務めをすべてなし終えた今、パウロの眼前には、「義の栄冠」が待っているのみだという確信があるのです。
ギリシャの各都市国家では、それぞれに競技大会が開かれ、勝者には、都市ごとに、月桂樹の冠、松の冠、オリーブの冠などが授けられました。
「その日には」(8節)とは、最も祝福された日である再臨の時を指しています。パウロは、再臨の時に、正しい審判者である主が、朽ちることのない「義の冠」を授けてくださることを待ち望んでいたのです。その冠は、パウロだけのものではなく、主の再臨を待ち望んでいるすべての人に授けてくださることを確信していました。その日、主は、「義の冠」、「いのちの冠」(ヤコブ1:12、黙示録2:10)、「しぼむことのない栄光の冠」(Ⅰペテロ5:4)を私たちのために用意していて下さるのです。
(結論)主によって強められて、信仰の良き戦いをりっぱに戦い抜き、「義の冠」、「いのちの冠」、「栄光の冠」にあずかる者となりましょう。