礼拝説教「祝福に満ちた唯一の主権者」2021年5月9日
聖書 テモテへの手紙第一6章15~16節
(序)本日もテモテへの手紙からお話しいたします。
一、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主
14節で、「私たちの主イエス・キリストの現れの時」と言ったので、15節で、パウロは、「その現れ」と主イエスの再臨の時の現れについて言及しています。その現れを、神は、ご自分の良しとされる時に示してくださいます。主イエスは、「その日、その時がいつなのかは、天の御使いも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」と言っておられます。すなわち、その日その時を決定されるのは父なる神の権限だからです。
続いて、パウロは、神への頌栄をささげています。まずは、「祝福に満ちた唯一の主権者」という表現で神を賛美しています。「祝福に満ちた神」という言い回しは、新約聖書において、ここと1章11節にのみ出てくる珍しい表現です。「人間に祝福を与える、祝福の源としての神」であることを意味しています。祝福の源である神は、信仰によって、主に従う者をもまた、「祝福の基」(創世記12:2)としてくださるのです。
創世記12章1節をご覧ください。この度の塩屋聖会において、
鎌野直人先生が、ここからお話しになった。「神様は、問題だらけの世界を解決するのに、問題だらけのアブラハムを選び、神が示される地に行くようにと命じられた。安定した生活を後にして、出て行けと言われた。『四の五の言わずに行け』と命じられた。」と言われたが、1節の「わたしが示す地に行きなさい」とは、直訳すると「お前自身に、行け」ですが、これは、「行け」という命令を強調する言い回しです。「断じて行け」というようなことです。ですから鎌野先生は、それを「『四の五の言わずに行け』と命じられた。」と言われたのです。ぜひ、塩屋聖会のアーカイブがありますから動画をご覧ください。この創世記12章を新改訳2017で読みながら、2節後半に「あなたは祝福となりなさい」と訳されているのに気づきました。これまで「あなたは祝福の基となるであろう」とか、「あなたの名は祝福となる」と訳されてきましたが、新改訳2017では、「あなたは祝福となりなさい」と命令形で訳されています。すなわち、神様は、私たちを祝福しないではおられないお方だということです。そして、鎌野直人先生は、「時に苦難の道を行くことも神の祝福の計画である」と言われ、主イエス・キリストが十字架の苦しみを通して、私たちの祝福となってくださったことに結び付けられました。
主なる神は、まさにそのような祝福に満ちた方、ご自身が苦しみを通ることにより、罪深い私たちを贖い、神との交わりという祝福を回復してくださったのです。
「主権者」デュナステースとは、「力ある」デュナマイから派生している言葉で、主権者、統治者、君主を意味する言葉です。これに、「唯一の」という言葉が付け加えられ、唯一の主権者である神についての頌栄が告白されているのです。
私たちの信じる神は、すべての者を創造し、祝福といのちを与え、全世界と全時代、永遠から永遠までを祝福のご計画のうちに統べ治めておられる唯一の主権者力ある神です。
さらに、「王の王、主の主」という表現は、黙示録17章14節と19章16節(キリストについての表現)に見ることが出来ます。当時、ローマ皇帝が、「王」または「主」と呼ばれていたので、「王」をはるかに超える者としての「王の王、主の主」という表現が出来たようです。
既に、主なる神は、唯一の主権者であることを見ましたが、言い換えると「王の王、主の主」ということです。
詩篇93篇、95篇、96篇、97篇98篇、99篇の中に、「主が王である」ということが歌われています。「主こそ王です。威光をまとっておられます。主はまとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ揺るぎません。」(詩篇93篇1節)
私は、これらの詩篇を読んでいた時に、「お前は、お前のうちに主を王としてその主権を明け渡しているか」と探られたことがあります。
主は、皆さんのうちに、王の王として、主権を持っておいででしょうか。あなたは、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主なるお方に、あなたのすべてを明け渡しておられるでしょうか。
二、ただひとりの死なない方
次に、「ただひとりの死なない方」とあります。主なる神は、永遠から永遠までいまし、唯一すべてのものに命を与えることのできるいのちの根源なるお方です。創世記2章7節をご覧ください。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった。」(創世記2章7節)
申命記32勝9~40節もご覧ください。「今、見よ。わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしが傷つけ、また癒す。わたしの手からは、だれも救い出せない。まことに、わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる。…』…」(申命記32勝9~40節)主なる神は、いのちの根源であり、人を生かすことの出来る大いなる方です。
主イエス様が言われた、「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書14章6節) や「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節)などのみことばが有名ですが、ヨハネの福音書には、「いのち」という言葉が新約聖書の中で一番多く用いられています。
ヨハネの福音書5章21節、25~26節をご覧ください。「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。…まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の声を聞く時が来ます。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」(ヨハネの福音書5章21節、25~26節)。神は、永遠から永遠までいまし、唯一すべてのものに命を与えることのできるいのちの根源であるお方です。
三、光の中に住まわれ、人間が見ることの出来ない方
「近づくこともできない光の中に住まわれ」とは、神の超越性と聖なる方であることが強調されている表現です。神は、光を衣のように着、天を幕のように広げておられます。詩篇を見ますと「あなたは光を衣のようにまとい、天を幕のように張られます。」(詩篇104篇2節)。「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです。」(36篇9節)。と歌われています。神は、光なるお方であり、光りの中に住まわれるお方です。実に、主イエスは「まことの光」であり、「いのちの光」「世の光」であられます(ヨハネの福音書1章4節、9節、8章12節、9章5節。第1ヨハネ1章5節)。
つづいてテモテへの第1の手紙6章16節に「人間がだれひとり見たことのない、また見ることの出来ない方」とあります。モーセは、主の栄光を見せてくださるようにと願いましたが、主は、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(出エジプト記33章18~23節)と言われます。主なる神は、聖なる栄光に輝いたお方です(イザヤ書6章5節)。
(結論)「祝福に満ちた唯一の主権者」であり、「王の王、主の主」であり、「ただひとりの死なない方」、「近づくこともできない光の中に住まわれ」、「人間がだれひとり見たことのない、また見ることの出来ない方」を私たちの神として信じ、このお方に、「誉れと永遠の支配」をささげて参りましょう。