満ち足りる心を伴う敬虔

礼拝説教「満ち足りる心を伴う敬虔」2021年4月25日

聖書 テモテへの手紙 第一 6章1~10節

(序)本日もテモテへの手紙からお話しいたします。

一、心から仕えなさい 1~2節

パウロは、キリストにあって、すべてのクリスチャンは、奴隷も自由人もなく、すべての者が平等であることを語っています(ガラテヤ3:27~28)。しかし、パウロは、当時の社会秩序を壊そうとはしていません。その置かれた社会の中で、如何にキリスト者らしく生きるべきかを教えています。奴隷の立場にあるキリスト者が、同じキリスト者である主人を軽く見て、何もかも自由と平等を主張するのではなく、ますます心から良く仕えるべきことを勧めています。それは、神の御名とキリスト者の教えとが非難されることのないためだというのです。そして、そのよい奉仕から、キリスト者の主人も、仕えている者も益を受けるのだと言っています。奴隷制度は、敬虔なキリスト者によって、廃止の運動がなされ今日に至っています。英国におけるウイルバーフォースやトーマス・フォイエル・バックストンの奴隷解放の働きは大きな業績です。

二、敬虔を利得と考える者に対する警戒 3~5節

 違ったことを教える偽教師について警戒しています。彼らは、主イエス・キリストの健全な言葉や敬虔にかなう教えに同意しないで、高慢になり、真理を何一つ悟らず、すべてに疑いを持ち、ねたみや争い、そしり、悪意の疑いを起こしています。彼らは、言葉の争いの病気にかかっているのだと皮肉っています。また、彼らの知性は腐っており、真理を失い、敬虔を利得の手段と考えているというのです。ですから、彼らの間には、絶え間のない紛争が生じるのだと警戒しています。

三、満ち足りる心の敬虔 6節 

 6節、偽教師たちが敬虔を利得の手段と考えているのに対し、パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔」こそ、大きな利益であることを証ししています。どのような境遇にあっても、真の信仰、真の敬虔は、私たちの内に満ち足りた感謝の心を与えるものです。

「満ち足りる心」と訳されたオートアルケイアとは、自給独立して、十分豊かな暮らしが出来ていて満足していることを表しています。

A.T.ロバートソンは、ここ6節について「この心構えは、パウロの『大いなる益』great gainの概念である」と言っています。

パウロは、第2コリント9章8節において、心から惜しみなく献金をささげるようにと言う中で、「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることができます。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです」と言っています。すなわち、神様は、すべてのことに満ち足らせ、恵みを溢れるばかりに注いでくださる、ということを言っているのです。

また、ピリピ4章11節で、パウロは、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4章11節)と言っており、ピリピ1章21節では、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1章21節)と言っています。すなわち、彼の生涯の目標が、キリストを得るという一点に向かっているのです。

まさに、聖書は、「満ち足りる心を伴う敬虔」ということで満ちています。

7節に、「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません」とあります。実に、私たちは、何一つこの世に持って生まれませんでしたし、また、何一つもたないでこの世を去ります。まさに、ヨブが「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)と言っているとおりです。

ですから、パウロは、9~10節で、「金銭を愛すること」を警戒し、「衣食があれば、それで満足すべきです」と言っています。

ジョン・ウェスレーは、『金銭の使用法』という説教の中で、「できる限りもうけ、できる限り貯蓄し、できる限りささげよ」と言っています。すなわち、「…不断の勤勉さをもって、神があなたに与えられたすべての理解力を用いて、できる限り稼ぎなさい。…愚かな欲望、すなわち肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢を満足させることにすぎない支出をすべて削り、…何事にも無駄ずかいをやめることで、できる限り蓄えなさい。そして、できる限り与えなさい。換言すれば、もてるものすべてを神にささげなさい。これぐらい、あれぐらいと言って、出し惜しみしてはなりません。…やがてあなたが管理人としての責任を終え、良き収支報告を提出出来るように、自分のためにも、家族のためにも、信仰の家族のためにも、全人類のためにも、財を用いなさい。…主イエスの御名によって勧めます。召しにふさわしく行動しなさい。怠けてはなりません。あなたの手もとにあるなすべきことはみな、全力で行ないなさい。浪費は駄目です。」

(『金銭の使用法』ウェスレー著作集5巻191~192頁)

最後に詩篇86篇をお開き下さい。11節に、「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように」という一句があります。ダビデは、自分の心を主に向かって集中することができるようにと願っているのです。

一人のクリスチャン青年が、人生半ばにして失明した。杖もつかず平気で歩き回っていると、つい石垣を踏み外して下へ落ち、足を折ってしまった。まさに泣きっ面に蜂、重ね重ねの不幸せに友人知人は、お見舞いにやってくる。しかし、彼は、一つの歌を作り、掛け軸にしてもらい、床の間に掛け、くる人ごとに、その歌を紹介して、彼の幸いな心境を語ったそうです。その歌とは、「何不足、宇宙は我が家、神は父、無限はわれの持物ぞかし」

まさに、この一人のクリスチャン青年の心の視点は、主に向かって一つであるのです。

私たちの心の視点を主に向かって一つにしていただきましょう。それこそが、「満ち足りる心を伴う敬虔」です。

(結論)私たちもこのような「満ち足りる心を伴う敬虔」に生きる者となりましょう。