礼拝説教「きよい手とつつましい生き方」2021年3月7日
聖書 テモテへの手紙第一 2章8~15節
(序)この一段は、男性と女性のクリスチャンのあるべき姿が勧められています。
一、男性のあるべき姿 8節
8節に、「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」とあり、まず、男性クリスチャンのあるべき姿が勧められています。男性に対しては、わずか一節です。「ですから」と接続詞があり、7節までの勧めの結びの言葉であろうと思います。「どこででも」と言われているのは、「公同の礼拝をささげるところではどこででも」の意味であろうと思われますが、家庭、あらゆるところで、「きよい手を上げて」祈る事は幸いなことです。ユダヤ人は、公の礼拝では、立って手を上げて祈る習慣があったようです。ひざまずいての祈り、または、ひれ伏して祈りは、特別の苦しみや願いの祈りのときの姿勢でした。
この箇所について、「言葉は短いが『きよい手を上げて』の中に、全生涯、神の前のきよさ、明朗さがうかがえる。」と小島伊助先生は言っておられます。怒りと議論の手を上げるのではなく、祈りのきよき手を上げなさいというのです。ですから、ここに、きよく、謙遜で、正直、柔和な男性の姿を見ることができます。パウロは、特にエペソの教会に対し、絶えず目を覚まして祈るべきことを勧めています。エペソ人への手紙6章18~20節。
二、女性のあるべき姿 9~15節
1、良い行いにより身を飾り
女性にたいしては、まず、「つつましい身なり」が勧められています。「控えめに慎み深く」とあります。いつの時代、どの地域においても、女性は、髪形、金や真珠、高価な衣服が気になるようです。ともすると、流行を追って、派手になり、身につけもしないのに、やたら高価なものを買いあさる人々がいるようです。しかし、クリスチャン女性は、神を敬う者として、そのような衣服で身を飾るのではなく、良い行いによって、自分を飾るようにと勧められています。ペテロ第1の手紙3章1~6節をご覧ください。ペテロも同じような勧めを女性に対してしています。ペテロは、従順と柔和と穏やかな霊によって、心の中の隠れた人柄を飾りにするようにと勧めています。
2、静かで従順な心で
11~12節で、女性は、静かにして、従順な心をもって教えを受けることを勧めています。女性が男性の上に立って、男性を教えたり、支配したりすることを許しません、とかなり語気を強めて命じています。このことに関しては、エペソ教会の特殊な状況が背後にあったと考えられています。時代の風習に制約されている聖書の箇所を機械的に現代に当てはめることはできませんが、その意味している精神は受け取るべきでしょう。パウロは、女性が静かにしているべき理由として、エデンの園におけるアダムとエバの立場とエバが最初に誘惑されたことに言及しています。コリント人への第1の手紙14章34~38節。
3、信仰と愛と聖さとを保ち
15節、女性が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つべきことを勧めています。子を産むこと自体が救いと結び付けられているようですが、教えたり支配したりという事とは対照的な女性としての役割を述べているのではないでしょうか。またそれは、創世記3章で言われている「女のすえの誕生」とかかわりがあるのではないかと思われます。慎みとは自己がコントロールされていることであり、信仰とは神を崇めることであり、愛とは隣人を認めた親切な行為であり、聖さとは、清純さです。
三、キリストに倣いて
男性クリスチャンと女性クリスチャンのあるべき姿についてのパウロの勧めを見ましたが、もう一度、8節のはじめにある「ですから」という言葉に戻りたいと思います。最初の申し上げましたように、7節までの勧めの結びの言葉として、「ですから」と接続詞があります。すなわち、結論的に申しますと、男性であれ、女性であれ、私たちのために仲介者となり、ご自身を捨てて贖いの代価となってくださったキリストに倣うということです。どこででもきよい手を上げて祈り、信仰と愛と聖さとを保つ生き方を完璧になさったお方は、主イエス・キリスト様です。その生き方に倣えというのです。キリストに倣って、きよい手を上げて祈り、信仰と愛と聖さとを保つとき、その姿を見て、人々はキリストを知りたいと思うのです。
昔、笹尾鐵三郎先生が、香登修養会にご用された時の逸話が残っています。香登は、今でも無人の駅しかない田舎です。しかし香登教会には毎週100 名をこえる人々が集まっています。当時としては、交通機関と言えば、山陽本線の万富駅から、かなりの距離を人力車に揺られていくしかありませんでした。笹尾先生、人力車に乗り、吉井川に沿ってゆったりと下っておられた。「ところで、キリスト教について聞いたことがありますか」と笹尾先生が伝道を始めなさった。返って来た返答に笹尾先生おどろいた。車夫は「旦那、聞くも聞かねえもねえ、毎日見てますよ」と言ったというのです。当時のクリスチャンがそれほどに証しを立てていたと言うことです。
マタイの福音書5章13節、14節には、「あなたがたは地の塩です。…あなたがたは世の光です」と言われています。それぞれ置かれたところで、「地の塩、世の光」として、みことばを証しして参りましょう。
(結論)いつでもどこでも、キリストに倣い、きよい手を上げて祈り、信仰と愛と聖さとを保つ者とならせていただきましょう。