礼拝説教「キリスト・イエスにある神の作品として」2024年6月2日

説教題「キリスト・イエスにある神の作品として」

聖書 エペソ2章1~10節

  パウロは神の大能の力がキリストのみわざを通して表れると言いますが、それはどのように働き、わたしたちはどのようになされているのでしょうか。

  • わたしたちは以前は神に背き罪の中で死んでいた。

  人は神によって作られ、地上に住まわれる神に仕え、神とこの世界を取りなす祭司の務めにあずかっていました。しかしその神に背を向け、神にならぬ偶像にふけり、結果として神の祝福を失い、ついには空中の件を持つ支配者、不従順の子らの中に働いてる霊たるサタンに服する者となり果ててしまいました。それは言い換えれば捕囚の状態と言えるでしょう。罪の奴隷となった人間は自分の力でサタンの力から自由になることはできません。罪の縄目を解く解放者、メシアが来てくだされなければならなかったのです。

  • 神はキリストを世につかわし、わたしたちを罪から解放してくださった

 あわれみ深い神様はわたしたちを愛してくださった大きな愛のゆえに、キリストをこの世に与えてくださいました。キリストはこの世界のすべての罪をご自身の身に引き受けて十字架にかかってくださいました。それによってわたしたちのこの世での祭司としての役割は回復しました。そのことはわたしたちの知恵や努力によるのではなく徹頭徹尾神の賜物によるものでした。

  • キリストの救いには目的があった

 キリストの救いには神の目的がありました。それはわたしたちが神の作品として神に用いられることでした。祭司としての務めから堕落してしまったわたしたち人間を神はキリストにあって新しくお造りくださり、わたしたちの行いを通して神の聖い愛なるご性質を反映させてくださったのです。そして神の国が到来しキリストが王となってくださったことを証しするようにキリストの証人としてくださったのです。感謝!